【読書メモ】「意味」について『社会システム理論(上)』

ルーマンの「意味」概念は、現象学的分析における意味を下敷きにしているが、まったく同じというわけではない。

ハイデッガーによる現象学的な解釈において、意味とは、

意味とはすなわち、あるものがそこからしてしかじかのものとして了解可能になるところ、すなわち投企において見越されていたものの、先持と先視と先取によって構造された目あてのことである~意味とは、了解に備わる開示態の形式的=実存論的骨組みとしてとらえられなくてはならない。-ハイデッガー『存在と時間』(ちくま学芸文庫)-pp.327-328

ということになる。これだけ読むと「ちょっと何言ってるかわからないですね」状態なのだけれども、要するに、「人間の意識が・あるものについて・考えることを・可能にするもの」だと考えればわかりやすい。(まったく厳密ではないが)言い換えると、「想定の範囲」(をつくるもの)みたいなものである。

一方、ルーマンの場合だと、

意味という現象は、体験や行為のそれ以外の諸可能性を過剰に開示するという形式において現れる。そうした諸可能性のうちにあるものは、視線の集まるところに、つまり志向の中心に存しており、それ以外の可能性は、その他の数々の体験や行為のための地平として、周辺にあるものとされている。~意味の指示それ自体は、現実を捉えようとして行なわれているのだが、その指示には現実的なもの(または現実的なものと推定されるもの)のみならず、可能的なもの(条件付きで現実的なもの)と否定的なもの(非現実的なもの、不可能なもの)が含まれている。-ルーマン『社会システム理論(上)』(恒星社厚生閣)-pp.93-94

とある。こちらもなんだかよくわからないが、ざっくりいえば、ハイデッガーの意味概念よりもルーマンの「意味」概念のほうが範囲が広い。「過剰」がキーワードだ。ルーマンの「意味」の場合は、今はまだ現実になっていないものとか、可能性として否定されているものまで、その中に含んでいる、ということが強調されている

重要なちがいは、ルーマンの「意味」のほうが範囲が広くていろいろなものが入っているから包括的だ、とかいうことではなくて、「過剰」に含んで(孕んで)いるということから導き出せる仮定―不確実、不安定、ゆらぎ―にある

つまり、どういうことか。「意味」は実際に可能になるもの・出現するものよりも、さらに多くのものを抱えているので、

意味という形式はその指示構造をとおして、次の段階を選択へと強制している。こうした選択の不可避性は~その結果として~接続の最終的な確かさをもたらすことはできない。-ルーマン『社会システム理論(上)』(恒星社厚生閣)-p.94

ということなのだ。つまり、ルーマンの「意味」においては、多数のものから選択することが不可避的に強制されているので、過剰なものからの選択の結果が同意に到達するとは限らない……というか、同意には到達しない、というのが基本的な考えである。現象学の「間主観性」が同意の形成に重点をおいているのとは対照的だ。

ルーマンは、(社会的なものを説明する用途には)間主観性は使い物になりませんよ、とこき下ろしているのだが、それというのも、ルーマンは社会なものの一般的な性質を「一致」ではなく、「ズレ」であると見なしているからだ。「ズレ」に対して敏感になれる概念だとか、もしくは社会とは基本的にはズレが生じるものであるはずなのに続いていくことができるのはなぜなのか、ということを問題にしているのが、ルーマンなのである。

このちがいが、シュッツの『社会的世界の意味構成』のなかで、どのように読み取れるのかを楽しみにしている。