【読書メモ】『社会的世界の意味構成―理解社会学入門』1

ここ数日というもの、社会科学におけるヴェーバーの「客観性」についてちょっと調べたいと思ったので、その辺りの分野の本を読んでいる。

で、今読んでいるアルフレッド・シュッツの『社会的世界の意味構成―理解社会学入門』は、ヴェーバーに対する(現象学的手法を用いた)注釈……のような本である。シュッツはユダヤ系のオーストリア人だが、ナチス・ドイツによるユダヤ人の迫害を避けて、国外へと脱出し、アメリカのニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで教鞭をとった。P.L.バーガーの現象学的社会学や、ハロルド・ガーフィンケルのエスノメソドロジーなど、後のアメリカ社会学の発展に大きな影響を与えた人物がシュッツである。

とりあえず、第一章の予備的考察だけでも、いろいろと興味深い問題提起があるので、いくつかメモとして抜き出しておく。

僕が解釈するに、シュッツによるヴェーバー批判の要旨は、次のようなことだと思う。

すなわち「行為者の主観的意味というものに、客観的な観察者は(ヴェーバーがいうほど楽観的には)到達することができない」ということである。

この指摘と似たようなことは、ヴェーバーの本(『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』)について僕が書いた先日のメモ(12)で、僕も触れている。つまり、

  • 「われわれ」(観察者)の文化価値理念と、「あいつら」(観察される側=行為者)の文化価値理念はちがう可能性がある。
  • だから、「われわれ」の文化価値理念を使って理解・解釈できたからといって、それで行為者の文化価値理念を掴んだことにはならない。

ということである。

要するに、ヴェーバーの社会科学的分析は実際には「われわれ」にとっての理論でしかないので、「あいつら」が「あいつら」の中で何をやっている(つもりでいる)のかはわからないでしょ、ということだ。

もちろん、ヴェーバーはヴェーバーで、社会科学的分析の客観性とはそもそもそういうものなんですよ、社会科学的分析にとっては「われわれ」にとって意味のあるものをどれだけ発見することができるかが重要なんですよ、というようなことを言ってもいる。(ここで「われわれ」ではなく、「あいつら」のやり方(メソッド)に迫ろうとするのが、エスノメソドロジーということになるのだが。)

とはいえ、より大きな問題は、肝心なところがぼんやりしているヴェーバーの方法論では、「あいつら」のことだけでなく「われわれ」のことについても、実はあまりよくわからない、という点にあるだろう。ヴェーバーの方法論は、「われわれ」の理論としても、改良の余地があるのだ。

つまり、どういうことか。まず確認しておくべきは、行為者の行為を、「動機」の分析を介して、外部にいる観察者が客観的に理解・解釈しようとするとき、そこにはヴェーバーが関心を差し向けていない落とし穴がある、ということだ。シュッツが本書で指摘するには、

「動機」を述べることが決して「思念した意味」の最終的な構造を明らかにするものではないことを、この際はっきりさせておかなければならない。反対に、行為者は自分の遂行的行為の意味を決して「疑うこと」をしない~行為者は自分の遂行的行為の動機を調べるときにはじめて、この疑わない意味の中から、自分の遂行的行為にとって重要だった過去の諸体験について問題にしたり、自分の遂行的行為が予期するところでは重要であろう将来の出来事について問題にしたりするのである。行為者は、かくして、意味連関について、その有意味的な行為の有意味的な根拠について、要するに動機について問題にしうる前に、「思念した意味」が行為者にはすでに先行与件でなければならないということができるわけである。-pp.55-56

ヴェーバーは~動機を暴露することとある遂行的行為の思念した意味を把握することとは等しいのか―という問題を不問に付している。-p.55

以上のことを、「あいつら」ではなく「われわれ」に当てはめてみよう。すると、「われわれ」の行為の動機を明らかにしたところで、「われわれ」の「思念した意味」を掴んだことにはならない、ということになる。

そこで、ヴェーバーの研究を引き継ぎ、さらに先へと進めて、意味とはなにか(意味はどのように形成されるか、意味はどのような性質を持っているか)、「思念した意味」と「客観的意味」との関係とは……などを明らかにする学術的な諸課題がある、ということになる。

ここまでは第一章を僕なりにまとめた。本書の第二章以降では、シュッツによってこうした諸課題への取組みが展開されるはずなのだが、ここまで読んでみて、ルーマンの『社会システム理論』を再読したくなってきたので、とりあえずシュッツからは離脱し、ルーマンに戻ってみようと思う。

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