【読書メモ】『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1

別に社会学を専門に研究しているわけではないのだが、いやしくも社会学を学ぶ者にとっては本書は必読書ということになっているので、ちょっとだけマジメに読んでみることにした。

社会科学は何を対象にし、その対象にどのようにアプローチすべきか、ということを書いた論考である(らしい)。

文化的実在を特定の「観点」~から一面的に分析することが、正当とされる理由は~次の事情に求められる。〔専門化により〕同一の質的範疇〔カテゴリー〕に属する原因の作用について、同一の概念用具方法敵装置を使いこなすことができて、分業に備わる利益がことごとく手に入るという事情である。結果が、そうした一面的分析を支持する限り~一面的分析は、けっして「恣意的」ではない~「一面性」と非現実性は、およそ文化的実在の科学的認識にまったく一般的に妥当する原理の、一特例にすぎないのである。この点を、その論理的な基礎ならびに方法上の一般的帰結について明らかにすることが、以下の論究の主要な目的である―p.72

つまり、社会科学の対象(ここでは「文化的実在」と記されている)を一面的に分析することは正当化できるし、一面的に分析するしかない……むしろ「一面的に分析していくべし」というのが、ヴェーバーの主張である。上記の引用箇所の直後で、文化生活ないしは社会現象の分析に関しては、“特定の「一面的」観点をぬきにした、端的に「客観的な」科学分析といったものは、およそありえない”と述べている……のだけれど。

ちょっと意地悪な要約になってしまうが、これは「社会現象の分析は一面的な分析にしかならないが、結果として妥当であるならばOKでしょう」という立場の表明ということになる。さらに読み進めてみると、

なんらかの出来事を規定している原因の数と種類は、じっさい常に無限にあり、そのうちの一部分を、それだけが考慮に値することとして選び出すための標識〔メルクマール〕は、事物そのものに内在しているわけではない。無数の個別的知覚に関する「存在判断」の混沌~こうした混沌に秩序をもたらすのは、いかなるばあいにももっぱら、個性的実在の一部分のみが、われわれが当の実在に接近するさいの文化価値理念に関係しているがゆえに、われわれの関心を引き、われわれに対して意義をもつ、という事情である。それゆえ、つねに無限に多様な個別現象の特定の側面、すなわちわれわれが一般的な意義を認める側面のみが、知るに値し、それのみが因果的説明の対象になるのである。-pp.87-88

とある。つまり「何を説明の要因として持ち出すかは、われわれの文化価値理念に関係している」という話である。

もう少しわかりやすくいうと、「○のせいで×が起こった」と説明するときに、○に何が当てはまるのかは、「おれたちのルール」によって影響を受ける、ということだ。

これについては、まず「われわれ」というのが誰を含むのか、その外部に誰がいるのかというのが、問題のひとつである。「われわれ」の範囲をどこに取るかで、誰かにとっては適合するけれど、別の誰かにとっては適合しない、だけどそれでいい、ということが起こりうる。

「社会科学の女王」たる経済学について考えてみよう。たとえば財務省は「消費税を増税した後に景気が交代したのはアジア通貨危機のせいである」と言い張ってきた。最近では「増税すれば景気回復します」とか「ホワイトカラー・エグゼンプションで少子化が解決できます」などとも喧伝されている。僕の感想としては「そう思うのならそうなんだろう、お前らの中ではな」ということになりますが、現実的には「お前ら」のほうが政治的に権力があるので、彼らの正しさに基づく政策が実施されることになるでしょう。

もうひとつの問題は、ヴェーバーはこの時点では直接には言及していないけれど、「結果も(割と自由に)選び出せるだろう」ということ。「文化価値理念に関係」するという条件の範囲内であれば、ある程度までは自分の好きな結果を選び出して、それに好きな原因をくっつけることができてしまうというわけ。これなら、わりとなんだって妥当ということになってしまうよね。

この二点目は、かなり面倒な問題だと思う。たとえば、環境への影響(エコロジー問題への意識)を考慮しない社会であれば、環境にもたらされた・もたらされるであろうもろもろの悪影響を排除しながら、経済的メリットだけを「結果」として取り上げ、分析することが可能だし、正当化される。

もちろん、悪影響がますます深刻になると、「結果が一面的な分析を支持し」なくなってくるので、「その分析は恣意的だよ」との批判を免れ得なくなってきて、勝手なことはいえなくなってくる。でも、深刻な状況になったら、すでに手遅れ……ってこともあります。少子化なんて、その最たる例。

88ページまで読んだところだが、「一般的で抽象的な法則の追求なんて社会科学にとっては全然本質的じゃないよ!」みたいなことをヴェーバーは言っていて、未来のルーマンをdisってるなあとか思うんだけど(もっともルーマンはルーマンでヴェーバーの「プロ倫」をやんわりとdisってたりしますが)、ヴェーバーにとっては個別的な出来事の因果的な帰属こそが社会科学の最重要課題である! という話のようなので、これからどんな主張と論証が出てくるんだろうと期待しながら読み進めます。