書評:ハマータウンの野郎ども

ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』は、イギリスの教育制度の観察・分析を通じて、文化や階級が再生産される構造を明らかにしている。原題はLearning to Labourである。「働き方を学ぶこと」「働くために身に着けること」などと訳せるが、訳者の熊沢と山田は「まずは素直に」[1]前者の訳を選択する。しかし、訳者がわざわざ「あとがき」で言及しているように、この本のタイトルには別の含意があり、さまざまな読みを可能にしている。本書の内容を詳しく読んでいくと、著者のウィリスが後者(「働くために身に着けること」)の意味をも持たせていることがわかってくる。私は主に後者の文脈で本書の内容を理解した。

本書は二部で構成されている。第一部「生活誌」は、「ハマータウン男子校」(バーミンガム北西に位置する都市ソーホーにある、セカンダリー・モダン・スクール男子校)を中心に行われたフィールドワークの記録である。そこでは、文化資本が低い家庭に生まれ育ち、学校や教師に対して反抗的な態度をとる「野郎ども」の実態が描かれている。彼らは学校教育の中で底辺に位置するとともに、学校教育に順応している生徒たちを「耳穴っ子」と嘲り、学校で教師から与えられる教育の持つ価値を否定し、自分たちの楽しみを大事にする。彼らは仕事に対して「全人格的」に没入するような生き方を拒否する。しかし、そんな彼らが、逆に「卒業後も無資格のまま、不熟練肉体労働という『最底辺の労働』」に入っていき、かえって厳しい境遇に置かれるという実態が浮かび上がってくる。

ウィリスによれば「彼らは決して選び残された劣位の職務を『ただ仕方なく落穂拾いしている』のではなく、彼らなりの意思を持って進んで『ある特定の職種群を選び取ってゆく』」[2]のである。そこで第二部では、フィールドワークで得られた成果をもとに、こうした非熟練労働者の対抗文化と階級の再生産がなぜ起こるのかという問いに対して、仮説の提示と分析が行われる。ここでは、主に第二部の内容について述べたいと思う。

ウィリスは、「洞察」(光)と「制約」(影)という彼独自の分析概念を用いている。「洞察」とは、「野郎ども」が資本主義と結びついた教育制度や職業選択の欺瞞を見抜いている[3]ことを指す。このような「洞察」に従って「野郎ども」は学校教育が「公平な競争」であるという幻想[4]や、その競争の先にたどり着ける「いい仕事」という幻想に早々と別れを告げ、公的なレールを歩むことを拒否する。しかし、彼らの鋭い「洞察」は、社会的・政治的な運動に結びつくことはなく、社会を変えていく力にも(このままでは)ならない。この理由についてウィリスは、まずは「単純明快」には「政治組織の不在」にその理由を求める。しかし本質的には、組織化を阻害する要因が彼ら肉体労働者の反抗の文化そのもののうちに潜んでいることこそがその理由である。組織化を阻害する要因が「制約」であり、それは肉体労働者の反抗の文化の中にある「男性優位」のマッチョな労働観および家族観、さらには根深い人種差別意識である。これらが彼らの肉体労働に対するある種のこだわりを生み出すとともに、不満のはけ口ともなることで、彼らは分断され、社会的・政治的な行動をとることができない。

このようにしてウィリスは、自分たちの文化が持つ可能性を「制約」する要因を自らの文化が生み出してしまうという循環的な構造を指摘する。第二部の第七章「文化と再生産の理論のために」においては、この循環的な構造に対する分析を試みている。「若者たちが手の労働に自足しようとするのは、頑迷なものの考え方にわざわいされてまったくの支離滅裂に陥っているからでもないし、深く刻み込まれたイデオロギーが彼らを無知にとどめているからでもない。そこには、異教的ともいえる世俗の文化が働いている。それは無意味な混沌でもないし、他人の意味付けに支配されてもいない。自前の文化であるだけに自明のものとして、それは実践のうちに生かされるのである。それは、実践者たちの主観においては深刻な学習の過程であり、そのようにして将来を模索しながら主体のかまえを築きあげるのである」[5]と述べるように、あたかも個々人の自由裁量で行われているかのように見えることが、実は構造的な規定要因によって促されたものであるという立場をウィリスは取っている。

上で述べたようなことは、M.フーコーが『監獄の誕生』で述べていたこととも合致する。また、同じくウィリスとフーコーとの類似点として挙げられるのは、フーコーが「監獄の失敗」を社会の維持に必要な監獄の役割であると見なしたように、「学校の失敗」の産物ともいうべき「反学校の文化」を同様のものとして見なしている、ということだろう。その役割とは、次のようなものである「反学校の文化は、無意識のうちに学校教育の主要な(学校自体はそれが主要だとは自認していない)任務を、学校になりかわってやりとげる。その任務とは、労働階級の子弟の適当な部分を『自由意思において』熟練、半熟練、不熟練という肉体労働の諸分野へとふり分けることにほかならない。まことに、反学校の文化が現代教育の『危機』を生み出しているのではまったくない。反学校の文化とそれに支えられて生じる一連の事態は、むしろ真の危機の現出を抑止している」[6]

これと関連して私が非常に興味深いと感じた記述が、その少し前にある。少し長くなるが、現代の日本の若者の就職問題にぴったり当てはまると思われる内容なので、引用したい。「国家制度の多くの分野で公認のイデオロギーが一義的に浸透するなら、あるいは同じことの言い換えになるが、インフォーマルな対抗文化の再生産が根絶やしになるなら、そのときは社会の再生産それ自体が危胎に瀕することになろう。たとえば、教室から職場へという『実社会への巣立ち』の問題を考えてみればよい。労働階級の少年たちが、自己実現とか労働のよろこびとか職業人としての自覚とかの学校当局のいう金科玉条をかりにも本当に受容し内面化したなら、就職戦線は一大混乱に陥るはずである。『実現すべき自己』の概念を真に受けた若い志願兵の群は数少ない有望な職種をめざして殺到することになろうし、たいがいの使用者は新兵たちの意気ごみが無意味な労働の画面からあふれ出さないように万策を講じなければならなくなるだろう。かりにも事態がこうなれば、『進路指導上の隘路』といわれるものも今日の比ではなくなる。そのとき、新卒の労働者たちを工場に押しこむためには、総動員体制の戦時下のように国を挙げてのプロパガンダを組織するか、文字通りの物理的強制力を行使するか、そのどちらかとなろう」。ウィリスは(当時のイギリスにおいては)「今のところ事態はそうはなっていない」と述べているが、現在の日本の就職戦線はいかがなものだろうか。インフォーマルな対抗文化の再生産は「根絶やし」にはなっていないにせよ、大学進学率が5割を超えたということを考えると、その割合は減っているだろうし、根絶やしになるまでもなく一定以下の割合になれば、このような状況が到来するには十分であるように思われる。だからこそ、「学校の失敗」=「反学校の文化」=レールから進んで落ちこぼれる労働者たちの存在を社会は必要としている。となれば、「就職問題の解決のためには大学の数を減らせばいい」という一部学者や知識人の主張も、一理あるのではないだろうか(もちろん、雇用自体が不足している可能性もあるが)。

逆に、『監獄の誕生』との相違点としては、ウィリスは公認のイデオロギーとインフォーマルな対抗文化との関係を、きっかけがあれば後者が前者を転覆させうるようなかなりの緊張をはらむものとして認識し、そのように描いているという点である(フーコーはそこまで論じていない)。ウィリスは第二部の第八章「月曜の朝と憂鬱と希望」では、大半の人間が敗者にならざるを得ないにも関わらず参加せざるをえない競争のループ、資本主義経済の構造を打ち破るために、教員や労働者が何をなすべきかについて、手掛かりとなるものを提示している。「キャリア教育」(「人格形成」「自己認識」「職業選択」などといった中産階級に固有の偽造貨幣)の否定、次々と生み出され増え続ける「資格認定」の無視、ただ単に制約(男性優位や人種差別的な思想など)を取り除けばいいというものではないこと、政治活動の必要性などを訴えているが、具体的に何をすべきかまでは存分に語られてはいない。それは、ウィリスが本書を世に問うて30年以上が経過した現代に生きている私たちが、考え実践しなければならない問題なのである。

 


[1]P.ウィリス(1977)『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳,筑摩書房,p.449

[2]P.ウィリス,前掲書,p.472。

[3] 「野郎ども」の一人、ジョウイは次のように述べている。「簡単に言っちゃえばね、金かせぎの方便なんだよ。方便としてはいろいろな仕事があるようでも、結局は同じところに行きつく。俺たちのポケットに金が残るということさ。その仕事が好きで働くやつなんかいるものか。一文にもならないなら誰が働くかよ。俺はそう思うね。生きてくためにはパン代がいるからなんだ。実際の仕事は、そりゃ、いろいろ違うさ。でもごらんよ、結局はどれも同じ目的でやってることなんだぜ。とどのつまり賃金めあてなんだ。どれもこれも同じことなんだよ」P.ウィリス,前掲書,p.247

[4] 学校の競争が支配階層に有利に展開することについてウィリスは、ブルデューとパスロンの論を紹介している。P.ウィリス,前掲書,p.311

[5] P.ウィリス,前掲書,p.401

[6] P.ウィリス,前掲書,p.417-418