ブルデュー&ヴァカン
『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』

「抵抗が人を阻害し、服従が人を解放しうる」

 それこそが「支配される側に置かれた人々のパラドクス」であるとブルデューはいう。労働者、女性、マイノリティが従属するのは、よく考えた末に自覚的に譲歩したからではない。そこでは、合理的が選択が行なわれているわけではない。

 産出配分(エコノミー)を、経済決定論に基づく一般論として、あるいは合理的な選択の一種として解釈する人は、以下の2点において誤っているのだとブルデューはいう。すなわち、

  1. 潜在的に活性化された行為を、明白に認められた目的や利益に向かう合理的な振る舞いだと誤って解釈する
  2. 明白に認められた目的や利益の範疇がせまい(言い換えると、経済的な目的のみだと解釈しやすい)

 1については、述べる必要はないだろう。2は、明白に求められた目的や利益が、経済的な目的や利益としてのみ捉えられがちだ、ということである。明文化されていない、可視化されていない、非経済的・非物質的な利益のために、人が動いている可能性がある。しかも、人は自分の欲求に従うのではなく、集団≒システムの欲求に従って、その行為を行なうのである。

僕たちは皆、ゲームの参加者なのだ

 ブルデューといえば「ハビトゥス」の概念が有名だが、僕は彼の「界」という考え方が気に入った。ブルデューによれば、「界」とはゲームに近いものである。そこには参加者=プレイヤーがいる。しかしゲームと異なり、「界」は、誰かによって考案されたものではない。「界」は明文化も成文化もされていないような規則性に従って動き、そこにはプレイヤー同士の競争の産物である「掛け金」がある。プレイヤーはゲーム自体にも、「掛け金」にも承認を与えている。そしてプレイヤーは、自らがもつ有形無形のあらゆる資本を活用し、投資し、競争相手よりも有利な立場を築いて、この「掛け金」を回収しようとするのである。

潜在的な力と顕在的な力からなる力の場として、界はこれら力の布置を存続させたり変容させたりすることを目的にした争いのくりひろげられる場でもあります。さらに界は有力な位置のあいだの客観的関係の構造として、あらゆる戦略の基礎になっていて戦略の方向を定めています。界の中の有力な位置を占める者たちは、自分の位置を守ったり向上させたりするため、そして自分自身の生産物にもっとも好都合な序列化の法則を押し付けるため、個人としても集団としても、あらゆる戦略を練り出すのです。言い換えれば、行為者たちの戦略は、界における、すなわち特定種の資本の分布における行為者たちの位置に依存しており、彼らが界をどのように認識しているかに依存しています。つまり界に対する彼らの視点なのですが、この視点自体、界のなかでの位置にもとづいて採用されている視点にほかなりません。

ゲームの展開や中身は常に変わる。ルールでさえも。

 「界」の中においては、プレイヤーのあいだに力関係があり、その状態が界の構造を規定している。プレイヤーはゲームのルールに従って自分の手元にある資本を増やそうとするだけではなく、ゲームのルールを変えようとするかもしれない。

 さらに、「界」には特定の目的があるわけではない。ブルデューは「それ(界)は装置のように特定の目的を遂行するようにプログラムされた秘密仕掛けの爆弾ではないし、社会的な世界のなかで起こることのすべては邪悪な意思のせいだとみなすような陰謀思想には与しない。学校制度、国家、教会、政党あるいは労働組合は装置ではなく、界である。」と述べている。

 「界」の特徴とは、界の中では常に争いが生じている、という点にある。「界」の中の力関係は常に変化していて、その力関係から生じるアウトプットも、特定の意図や方向に向かって動くわけではない。その意味で「界」は歴史的なのである。また、界の外側を規定する境界線も絶え間なく変化している。ブルデューによれば「界において優位に立っているものは界を自分たちに有利なように動かす立場にありますが、それでも常に劣勢な側の政治的・非政治的な抵抗、異議申立て、権利の要求や主張と争っていかねばならない。」のだという。

 政官財学マスコミによる癒着、絶大な影響力を行使している東電など、優勢の側にある者たちも、劣勢な側の異議申し立てと闘わねばならないし、優位な者たちの意図通りにことが進む保障などはない、ということか。もちろん、そこには対立の積み重ねという、歴史的な要素が絡んでくる。

国家とは「界」の集合体である

 「国家」という言葉が意味するものは、境界がはっきりした単一の現実として国家がある、ということである。そして、自分たちの国家と同じくはっきりとした現実として存在する外的な勢力に対して、(敵対的であれ友好的であれ)お互いに外側の関係にある、ということを前提にしている。

 しかし、こうした概念的な「国家」観に距離を起き、現実の我々を取り巻いている国家の中に目を投じてみると、それは実際には「行政の界もしくは官僚制の界からなる全体(界の集合)である。」ということがわかる。

 これらの「界」の中において、行為者たち、あるいは特定の行為者集団は、彼らが政府に属していようとなかろうと、個人的にであろうと代理人によってであろうと、特定の形態の権力をめぐって争っているのだ。

 そのような観点に立てば、「国家が暴力を独占する」といった、ウェーバー的な国家観は修正を余儀なくされる。国家とは「界」の集合体であるが、それぞれの「界」の中では、誰が優位に立つのかという競争が常に繰り広げられている。正当な象徴暴力の独占を争点として諸勢力が争いを繰り広げる界の集合が、国家なのである。

 東電などの大企業優遇と取れる政策を政府が常に打ち出し続けているのは、国家が東電と癒着しているからではなく、東電が権力争いに勝利をおさめており、権力の独占に最も近い場所のひとつに位置しているからなのだと解釈できる。

リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待
―ブルデュー、社会学を語る