【書評】『消費社会の神話と構造』 (紀伊国屋書店)

ボードリヤールはポストモダン思想家の代表格と目されている。そして、ポストモダン思想家のご多分にもれず、難解な文章を書く(本書もけっこう難しい)。というよりも、どうも理解しにくい記述を意図的に挿入している疑いがある(なぜそんなことをしたのかは、当時のフランスの文壇の雰囲気があったのだろうと推測される。この記事の最後を参照のこと)。

言葉遊びの羅列、不正確あるいは不適切な比喩の使用、経験的に検証できず、論理的にも飛躍する主張などは、数え上げればキリがない。だから、ボードリヤールが書いたことをぜんぶ真に受けようとするのはよくない(よくないというか、徒労に終わるというか)。科学的には怪しいことが、この本の中にはほぼ確実に混ざっている。ボードリヤールがソーカル事件でやり玉に挙げられるのも無理はない。

だからといって、ポストモダン思想家の取るに足りない戯言でこの本はどう考えてもゴミであると切り捨てるのも早計だ。中には真実スレスレに迫っているのではないかと(私には)「感じられる」ところもある。あくまで(私には)「感じられる」なので、信じる・信じないの判断は実際に読んでいただいたほうがよいのだが。

「これ、当たってるかも?」という主張を例示しておくと……

消費社会では生産と消費が消費のシステムを維持するために行なわれており、そのせいで社会は(そして人々は)疲弊している。これがボードリヤールの主張のひとつだが、これについて、あなたはどう思うだろう。

もうひとつ。消費社会は消費社会の論理で動いている、そこに個人の意思は介在しない、という主張。これについても、どうだろう。もしもあなたがルーマンの読者であれば、「自己言及的なシステムの作動上の閉じ」というテーゼとの共通項を見出すことができるはずだ。

テレビにも、ネットにも、購買意欲を煽り立てる広告があふれているけれど、それらを通じて私たちが「買いたい」と思う(思わされる)ものには、実際には不要なものが多い。私たちは、さまざまなアイテムをそろえることで他人との差異を示し、個性的であるふりをしなければならない。場合によっては、消費の対象どころか支払いの方法(アメリカンエキスプレス!)によってでさえ、自分が何者であるかを示しているのである。

こういう社会、快楽よりも、不安や疲れのほうが大きくないですか。ボードリヤールは、そういうことをいっている。

……と、ここまで書いておいてなんだが、本書でボードリヤールが真実(に近いこと)を述べているかどうかは、実は私にとっては「どうでも良い」ことなのだった。

私がこの本を読んで知りたかったのは、ボードリヤールの概念の定義のしかたや、それを用いる方法だ。つまり「そもそも消費ってなんだろう?」とか「消費がなぜ悪いものと結びつけられるんだろう?」ということだ。

たとえば、ボードリヤールは本書で、消費は本当の価値を生み出さない、と批判している。「本当の価値」(の生産)をポジティブなものとする一方で、そうではない「消費」をネガティブなものとしてとらえているわけだ。現代社会は「消費社会」ともいわれているが、この「消費」という言葉自体は、ポジティブな意味にもネガティブな意味にも使うことができる。

経済的な言説では、消費はポジティブなものとして扱われることがある。「個人消費が弱い」といわれるとき、「消費」は「多いほうがよいもの」といえよう。つまり、ポジティブである。他方、社会運動の言説では、ネガティブなイメージと結び付けられる場合が多い。

たとえば、ここに「性的消費」という言葉がある。これは「人権の侵害」と結びつけられ、ネガティブな意味で用いられる。「性的消費」というのは、現実の人間としての女性ではなく、二次元のコンテンツで「女性」を体験することが、それによって女性の人権を傷つけること、というような意味であろう。

たしかに、上のような状況は社会的に非難されるべきことなのかもしれない。だが、なぜそれが「消費」という言葉で表されるのだろうか「消費」という言葉をそのように使えるのはなぜなのだろうか。あるいは、こう問うてもよい。どんなときに「消費」は悪者にされるのか、と。

本書を読めば、ボードリヤールがいかにして消費とネガティブなイメージを結びつけたか、そのやり方を観察できる。そしてそのやり方は、本書以降の人文社会学でも踏襲されている。「消費」をネガティブなものとして扱うやり方、論じ方のパターン、知識の枠組みをつくりだすのに大きな役割を果たしたのではないか……私はそう考えているのであるが。

そう考える理由について語ると、細かい(そして少々長い)話になりそうなので、別記事にて。

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