NHKの受信料について(喋らせてよ)

リハビリかねて久々にブログ更新。

「NHKは見たくもないし、見ない(そもそもテレビがない)から、スクランブルをかけてください」という経済的には至極まっとうな要望に対して、NHKはスクランブル導入を頑なに拒んでいる。

その表向きの理由は、「NHKは公共放送だから、皆が見たがるようなものばかりではなく、見る価値のあるものを公にしていく使命がある。だから、見たいものにだけカネを払うという、市場原理はそぐわない」というものだろう。本音は「金くれ」かもしれないが。

こういう、「市場か・公益か」という議論は、同じような形でそこら中にある。たとえば、最近話題になっている公共図書館(の在り方)については、「要求論と価値論の対立」という構図がある。簡単に言えば、図書館が利用者に人気のある本(流行の小説やマンガ、新書などといった、ベストセラー)ばかり置くのか、それとも万人受けはしないけど文化的に残し伝えていく価値があるものを置く(保存する)のかという、二つのニーズのどちらに図書館は寄るべきなのか、という話だ。

この構図を借りるならば、スクランブルを要求する大衆は「要求論」に基づいており(俺は見ないから払いたくない または 見たいものがあるから払う)、公益のためにやってます(というタテマエの)というNHKは「価値論」に基づいている立場を取っている、ということになる。

で、RT元となった鍵アカウントは経済学者らしく、「要求論」に基づく主張をするわけだが、これでは「見ないから払いたくないよ」という人を納得させるのは難しい。経済学者の先生が「オペラ、伝芸、山番組好きだから払います」といっても、「山とかオペラとか、俺の興味のない番組作りに受信料使われるなら払いたくねーわ」という人も出てくるかもしれない。

というわけで、市場の論理でNHKの存在を正当化することは難しい。なので「公共放送だから皆で維持していこう」という美しいタテマエ理念を支持するしかないのだが、そこで問題になってくるのは「公正・公平な負担かどうか」ということである。NHKは将来的に携帯電話どころかネットに接続できるPCからも受信料を取るつもりでいるらしいのだが、果たしてこれは公正・公平といえるだろうか。

「汚いやり方をしている」と人々に感じさせてしまった時点で、NHKは社会の「公益」に反する組織であるということもできる。何が望ましいのか、何が公正なのか、ということは、要求からも価値からも導き出せない。「ひとつの原理から出発し、それをどこまでも演繹して当てはめようとすると、【社会的な】矛盾・解決不能に行き着く」のである。

この矛盾に対して、現実のわれわれは、時には要求を、時には価値を持ち出しながら、つまり二重の基準を都合よく使い分けながら、解決していく。その使い分けが時に「自分勝手」と人々から批判されるか、それとも納得して受け入れられるのかは、共同体の「正義」にかかっている。