【読書メモ】「コミュニケーション」について①『社会システム理論(上)』

ルーマンのコミュニケーション論に入る前に、社会学の古典理論が形成される歴史を振り返っておく。

社会学の講義や入門書では、きまって「社会実在論」と「社会唯名論」が紹介されている。

前者は、「社会は非人格的な構造をもち,個人から独立した特殊な法則や力によって貫かれていると考える」もので、エミール・デュルケームがその代表格とされている。一方、後者は「社会は個々の独立した個人から成立しているのであって,社会とは個人の集合に与えた名称にすぎないとする考え方」で、マックス・ヴェーバーがその代表格とされている。

※ただし実際には、ヴェーバーの場合、社会を形作っているのは個人の集合ではなく、むしろ個人の“行為”の集合である、ということになる。これについては現時点では指摘のみにとどめておく。

さて、この社会実在論と社会唯名論、いったいどちらの理論に説得力があるのか、ということに興味が湧いてくる。しかし講義や入門書では、「こういう考え方があるよ!」と紹介はしてくれるものの、どっちが優れているかとか、本当はどっちなのかということについては、明確にしていないことが多い。

一般的には、「個人」を重視し「人権」を天賦のものと考えている現代社会、逆に言えば「そもそも社会がなければ人権もない」とは考えないような現代社会においては、社会唯名論が支持されやすいように思われる。

しかし、「小保方さんみたいな似非研究者が生まれてしまうのは、社会にも責任がある」といわれるようなときは、社会実在論に寄った主張がなされているようにも見える。

社会を個人に先行して存在していると考えることにも、逆に、社会よりも個人が先行して存在していると考えることにも、一長一短がある……というか、どちらも、誰かにとって都合のよい何かを主張する際に利用することができる。というわけで「説明したい社会現象に応じて、臨機応変に使い分ければいいや」くらいのところに落ち着くのである。

とはいっても、専門の学者たちにとっては「社会とは何なのか」ということを確定しておかないと、一応マズイわけである。そうでなければ「社会科学」を名乗れないだろうし。

さて、ルーマンのコミュニケーション論は「社会はコミュニケーションでできている」と見なす。

これは一見すると「社会の要素は個人ではない」と言っているので、つまり社会唯名論を否定する形になっており、「社会実在論側なの?」と思いたくなるかもしれない。

ところが、コミュニケーションというものは、形のあるものではない。永続するものでもない。そのときどきに現れては消えていくものである。だから、そういう不安定なものからできている社会は、当然、かっちりとしたものにはならないはずである。こうなると「社会が前もって存在している」ときっぱり主張するのも難しくなってくる。そもそも「存在している」とは何を指すかも、問題になってくる。

結局、どっちなのだろうか。こんなことをいいだして、ルーマンは一体何をしたいのだろうか。状況をわかりにくくしているだけじゃないの?

そうではない。「社会はコミュニケーションでできている」と考えることで、それ以前の考えにはなかった利点が生まれてくる。それは「人間は社会の部分ではない」と考えること、つまり「社会と人間を切り離して」考えることができる、ということだ。

さらにいえば、社会と人間を切り離して考えることで、社会実在論と社会唯名論とを使い分けていたときには、うまく捉えることができなかった問題や、そもそも見ることさえできなかった問題などを、上手に発見し処理できるようになるというのが、メリットなのだ。

具体的にはどういうことが上手くできるのかというと、たとえば「個人という要素には還元できない社会独自のメカニズムに対する感受性を高める」ことができるし、また「社会は安定的であるとは限らず、むしろ不安定である(にも関わらず継続できるのはなぜか)」という視点を提示することができる。

これでもまだ抽象的なので、続く2回の記事で、くわしく説明していこう。

次回に続く。