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		<title>社会的問題の発見と解決の手法に関する短い覚え書き</title>
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		<pubDate>Wed, 09 May 2012 15:00:56 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[　この世界と社会の中で、何か不具合が起こっているということを知った時、つまり何らかの不具合が起こっていることを観察した時に、「その不具合がなくなれば、世の中は良くなるだろう」というところから、ソーシャル・イノベーターたちは出発する。次に彼らは、どうしてその不具合が引き起こされているのかの原因（すなわち問題）を把握しようとするだろう。 　その原因＝問題に対する把握の仕方は、おそらく、次の2つのうち、どちらかのパターンを取ると考えられる。ひとつは、「何かが“ある”ことによって」不具合が起こっていると考えるパターン。それはたとえば「規制があるから・不具合が起こる」と考えるやり方である。もうひとつは、「何かが“ない”ことによって」不具合が起こっていると考えるパターン。こちらはたとえば「他の方法がないから・不具合が起こる」と考えるやり方である。 　果たして、何かがある（もしくはたくさんありすぎる）ことが問題なのだろうか、それとも、何かがない（もしくは少ししかない）ことが問題なのだろうか。社会に変革を、ソーシャル・イノベーションをもたらし、不具合を解消しやすいのは、後者に軸足を置く方法だろう。例えばワンコイン健康診断のケアプロを創業した川添高志氏は、非正規雇用の労働者が糖尿病などの重い病気を患うことを社会で起こっている不具合だと認識した。そして「非正規雇用者は健康診断を受けられない＝非正規雇用者が利用できる健康診断サービスがない→サービスがないから、非正規雇用者が糖尿病などを患うのだ」と考えて「ならば、非正規雇用者が使える健康診断サービスを作ればよい」というソリューションを提示した。もちろん、医療行為に関する「規制が“ある”から」健康診断サービスの提供が難しいという点もあった（今でもある）のだが、それはケアプロにとっては不具合を解消するにあたって乗り越えるべきハードルであって、解消すべき不具合そのものではない。 　問題を解決し不具合の解消を目指すときは、「あるものをなくす」よりも、「ないものを作る」から出発することを心がけたほうがよい。それはなぜかといえば、「現実的なものは全て合理的であり、合理的なものは全て現実的である」（ヘーゲル）からだ。つまり、それがどれほど目障りで、ろくでなしに見えるやくざな規制だったとしても、それがすでに存在してしまっているということは、何らかの合理的な理由によってである可能性が高いから、それを消し去るのは時として非常に難しく大変な抵抗がありうる（ひょっとすると不可能でさえあるかもしれない）からである。あるものをなくすのではなく、ないものを作ることのほうが、可能で現実的な問題の解決と不具合の解消につながりやすいのではなかろうか。つまり、「オルタナティブな選択肢を作ろうとする」ことが、ソーシャル・イノベーションが成功する鍵なのかもしれない。 　追記：不具合が現実的であること＝存在することは合理的なのだから、不具合をなくすことも難しい（ひょっとすると不可能？）のでは、とも考えられる。しかし、この場合に問題となっている不具合とは、制度そのものではなく、制度の結果として起こる不具合であることに注意されたい。制度の結果として起こる不具合は創発的なものである。創発的なものであるからには、それが創発する構造の中に新たな構成要素を付け加えることによって、別の創発を引き起こすことができるにちがいない。もちろん、新しい要素を構造の中に付け加えることによって、その構造の中で何が創発するかは計算しきれない。もしも構造の中に何かを付け加えることで、そこから新たな状況、新たな困難、新たな不具合が生じてきたときには、あらためて対処する必要があるのは言うまでもない。ともあれ、僕たちは何かをなくそうとするよりも何かを作ろうとすることに力を注いだほうがよさそうだということを、もう一度念押ししておきたい。 　さらなる追記：アメリカの要望（外圧）に従う形で、高度成長期以降の我が国で行なわれてきたさまざまな規制緩和措置は、「あるものをなくす」政策の典型であろう。これらの規制緩和措置によって、我が国における大切なつながり~経済的には無駄かもしれないが、なんらかの形で社会を支えている・基盤をなしているつながり~が破壊されてきたという指摘が今日ではなされている。僕は、この指摘については、正しいと思う。僕達の国は、「アメリカの言うことだから、仕方ない」「アメリカの言うことだから、正しいだろう」と考え、自分たちが必要としていたものを、かなり無自覚にぶち壊してきたのは事実である。だが、我が国が「変化しなければならない状況」に置かれていたことも事実であろう。ここから我々が反省すべきこと、学ぶべきことは、たとえ変化が必要であるとしても、「あるものをなくす」系の政策がもたらす影響の大きさというものを十分に肝に銘じて、いつでも次の手を打てるように備えておくことの大切さである。現在、深刻化の一途をたどっている労働問題に対しては、自由主義以外の論者からも「解雇規制を緩和し、その代わりに失業者保護と再就職のための教育を行うセーフティネットを整備する」という「なくす+作る」パターンの解決策が有効であると主張されている。僕もその方法を支持はするが、しかし「解雇規制をなくすことによって生じる影響」を、あまり狭い範囲で限定的に見積もらないほうがよいだろう。 　最後の追記：複雑化したポスト近代社会で政策に求められることは、政策が生み出した変化に対応する政策が打てること、つまり「直しながら作っていく」ということである。我が国の政治には「直しながら作っていく」という文化は、まだほとんど見受けられない。たとえば、介護保険制度では数年ごとの「見直し」が行われるが、直しながら作るというレベルには至っていない。この「直しながら作っていく」を実行できる環境が必要だ。それが「ない」から、「対処できない不具合」が起こっているのだ。]]></description>
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		<title>日本人は「体育会系」がお好き？</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Dec 2011 14:22:48 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[書評]]></category>
		<category><![CDATA[社会と政治]]></category>

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		<description><![CDATA[威勢の良さが好まれる日本 　今日はルソーの『人間不平等起源論』を読んでいた。これは素晴らしい内容の本なのだが、残念なことに邦題がよろしくない。というのは、この本のタイトルを見ただけでは、これが「人間はもともと不平等な存在として誕生してきたことを論じている」本なのか、それとも「人間が不平等な存在になってしまったのは何故なのかを論じている」本なのかが、判断できないからだ。この二通り以外の解釈も可能なので、とりあえず「人間と不平等と起源について語っているんだな」くらいのことしかわからない。人間と不平等と起源が、どういうふうに繋がっているのかは、想像に任せるしかない。 　ところが、原題は『Discours sur l&#8217;origine et les fondements de l&#8217;inegalite parmi hommes』、つまり『人間たちの間にある不平等の起源と根拠についての論文』というもので、長くてまわりくどいが、何が論じられているのかは明らかである。前置詞と接続詞を注意深く用いた論理的な原題に比べると、『人間不平等起源論』という漢字だけの邦題は、確かにシンプルで力強くてかっこいい。しかし、本の中身を知るのに役立つ情報の繋がりが、完全に失われている。「威勢はいいが、中身は空っぽ」という、いわゆる「体育会系」的なノリがそこにはある。 　この本に限らず、日本では、イメージを重視するあまり、内容の伝達に誤解を引き起こしかねないタイトルを付けられてしまう不幸な訳書が少なくない（クルーグマンの『格差はつくられた』とか、サンデルの『これからの正義の話をしよう』とか）。また、書名に限らずとも、日本語で書かれた文章全般についていえるのだが、日本語の文章や文字列からは必要な情報が抜け落ちることが頻繁に起こる。 　今日はたまたま、そのようなことの例をもうひとつ見かけてしまったので、それを書きとめておきたい。 告知を見ても工事の日程が分からない 　それは、JR南武線の高架化工事の日程を告知するポスターに書かれた文章である。その内容を要約すると「JR南武線では12月◯日に高架化工事を行う。その翌日の×日からは乗降場所が高架ホームに変わるので利用者は注意してほしい。なお、悪天候の場合は工事ができないので１月△日に延期する」というようなものだった。 　この文章の問題点は、１月△日という日付が、工事が行なわれる日なのか、それとも、乗降場所が高架ホームに変わる日なのかを正しく判断するのに必要な情報が抜け落ちていることである。なので、この告知を目にした人は、ふつう、延期された場合の工事日程を正しく知ることはできない。もちろん、こちらが勝手に想像することは可能なのだが、それが正しいという保障はない。 　なお、これには別バージョンのポスターもあって、そこには、１月△日が工事の予備日であるということが明確に示されていた。ここで断っておくと、別バージョンのほう、つまり明確に示されているポスターのほうがより多く貼り出されているので、僕が問題視しているまずいポスターのほうが例外である（というか、たぶんこのポスターは府中本町駅にしかない）。JRの名誉のために、一応、そのことを述べておきます。 この文章はなぜ分かりにくいのか 　さて、ただしい告知ができていないポスターの文章の何がまずいのか、言い換えれば、何を改善すれば情報が正しく伝わりやすくなるかは、次のとおりである。 方法１：工事が延期になった場合は高架化工事を１月△日に実施する予定である、という感じに、大切な情報は少々長くなっても省略せずに書く。つまり、１月△日がいったい何の予備日であるかを明記する方法。 方法２：工事の予備日と、高架ホームに切り替わる日の予備日、ふたつの日程を順番に書いておく。そうすれば、告知を見た人のほうで勝手に情報を関連付けて想像してくれる。常識的に考えて、高架化工事をする前に高架ホームに切り替えることはない。 　どちらの方法が適しているかだが、この場合は方法１である。それがなぜかというと、工事の日程のような情報が、受け手にしっかりと伝わらなかった場合には混乱が起こるからである。混乱を避けるためにも、人間の想像力によって日付の判断が左右される可能性は極小化されるべきであり、それゆえに多少文章が長くまわりくどくなってしまっても、厳密に書くことが大事である。 　もっとも、方法２、つまり受け手の想像力を利用する方法が、常にまずいというわけではない。こちらは、もっぱら小説のような、非実務的な用途においては活用されるべきであろう。むしろ小説を書くのであれば、方法２を用いなくても、最初の文言のままでいい場合も多々あるはずだ。 レトリックには危険が伴う 　話は少し変わるが、昔ぼくが駆け出しの編集者だったとき（いまでもヒヨコですが）、えらい人から「同じ言葉を繰り返し用いないで、なるべく類義語に置き換えて使いなさい」ということを、かなり念入りに指南された。しかし、当時は口にも表情にも出さなかったが、その指南の妥当性はかなり譲歩してもケースバイケースであり、むしろ類義語に置き換えないほうがよい場合のほうが多いと僕は考えている。 　というのも、僕は、ある現象を表現するのに最も適した一語があるはずだと考えているからだ。それゆえに、類義語を多用するよりも、最適の一語を捕まえる努力をして、それを何度でも使い通したほうが、正しい内容を伝えるのには役に立つという信念をもっているからだ。もっとも、常に信念どおりに行動するわけではないが。 　もちろん、類語辞典は使う。使うけれども、読者を退屈させないためにという名目で類語辞典を紐解き、本当ならひとつしかない現象や概念に対して、似たような意味だけれど真意は異なる同種の言葉（類義語）を駆使してそれを表現しようとすることは、必ずしも間違いではないが、しばしば間違いを引き起こしうるということを書き手は留意しておかねばならない。むしろ僕としては、あるひとつの現象や概念を説明するのに最も適した言葉を探すために類語辞典の助けを借りることのほうが、自分が表現すべきものと読者に対して真摯な姿勢であると思っている。もちろん、思っているからといって、常にその通り行動するわけではないことは言うまでもない。 内容と語感、どちらが大事？ 　もちろん、雑誌では、読者の想像力を刺激しなければならない場合もある。というか、そういう場合のほうが多い。だから、雑誌の記事を作る場合には、語感を重視する、文章のリズムを良くする、類義語を駆使するといったことは、当然行なっている（ケースバイケースといったのはそういうこと）。 　だが、事実を事実として明確に伝えなければならない文章を作る必要に迫られた場合に、修飾語や目的語を省略して一文を短くすることによって語感を良くしたりだとか、とにかく類義語を駆使してショーアップしたりしようとすることは、やってはならない。文章を飾り立てて美しいものにしたいという誘惑に、時には抵抗しなければならない場合もあるのだ。 　特に、今回のポスターは、必要な情報（工事の日程）を受け手（鉄道の利用者）にきっちりと伝えることが存在意義なのである。そのためには、文章のリズムは多少壊れてもいいので、受け手に正確な情報を伝えて正確に理解させることを目指して書くことが重要なのだ。「正確に伝えて理解させる」（≒「書き手の意図をより高い次元で実現させる」）という最優先の目的に即した場合にのみ、文体の美しさを追求することが許される。なので、たとえば書き手の意図が「読者を煙に巻く」ことや「読者の想像・判断に委ねる」ことにあった場合は、曖昧な表現でも問題ない。 　なお、余談だが、雑誌でもそういう「事実に即して正確な」文章を書かねばならないことが結構ある。そうなると、同じ言葉の繰り返しが出てくるのは仕方がない場合が出てくる。しかし、それでもなお、同じ言葉の多用をどうしても避けたい場合もある。そんなときは、類義語を駆使するのではなく、書こうとしていたシナリオを一旦リセットして、吟味しなおすのが正しい対処の仕方である。ただし、そのことがわかっているからといって、常にその通りに行動できるわけではない。念のため。 学術書を読みたがる人にはハッタリが効く 　今日、僕が経験した二つのこと、すなわち「人間不平等起源論」という邦題のまずさと、JR南武線の高架工事を伝えるポスターの文章の不明瞭さから、僕が感じたことを書き記しておきたい。それは、ひょっとすると（特に日本においては）、事実が何であるかをハッキリさせるということへのニーズはないのではないか、ということだ。 　ルソーの『人間不平等起源論』という邦題を見たとき、「この本でルソーが何を言っているのか」がタイトルだけで伝わる・わかることに、人々はこだわっていないのである。ルソーが書いた「人間不平等起源論」なんて聞いたら、「世界史の授業で聞いたことがあるたような気がするあの偉い人が、人間不平等起源について書いているだなんて、なんだか〇〇そうだ」となる。〇〇の受け止め方は人次第だが、人権や格差の問題に興味があったり、中途半端に学問をかじっているような人ほど、著者名と書名だけで「なんかスゴそう」と引きつけられる可能性は高いだろう。 　何かに最初に触れたとき、人は（勉強しようとしている人でさえも……というよりも、勉強しようとしている人のほうが）対象の中身を精査しようとはせず、むしろその対象の「顔」（著者と書名）に強く印象づけられる傾向がある。実際に何が書いてあるかよりも、誰が書いたかということや、「人間不平等起源論」という言葉の連なりが与えるイメージ（＝ハッタリ）のほうが重要なのだ。だとすれば、自分たちが持っている情報を正しく伝えることよりも、自分たちが持っている情報をどれだけ高く見せつけることの方に売り手（翻訳者や出版社）の関心が傾くのも、やむを得ないことだろう。 　「人は見た目が９割」とはよく言ったもの。「〇〇は☓☓が９割」理論は、文章にも応用できるということをあらためて感じたので、それを言語化してみた。しかし、本当のところ、海外の学術書の邦題をつけたり工事日程を告知したりするような場合においてさえ、体育会的なノリがありがたがられる風潮では、さすがにまずいとは思うんですが。まあ「体育会系は良いけど、理屈っぽいのはちょっと……」みたいな象徴資本に対する評価の差、つまり「不平等」が生じるのも、ルソーがいうように「社会があってこそ」のことなんですよね。それは人間の本能に起因するのではなく、社会がそのような差を固定化し、再生産しているのだ。 人間不平等起源論 (光文社古典新訳文庫)]]></description>
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		<title>日本と日本人を苦しめる「真面目さ」の正体</title>
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		<pubDate>Wed, 23 Nov 2011 16:51:12 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会と政治]]></category>

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		<description><![CDATA[ORFに参加してきました 　11月23日、東京ミッドタウンにて開催された、慶應義塾大学SFCオープンリサーチフォーラム〜学問ノシンカを見学してきた。実は、僕が社会人（斜壊人？）経験を経てSFCに入り、再び学びたいと考えるようになったのは、雑誌編集者時代にORFを取材したことがきっかけだ。そうした因縁があって、今年はじめてプレス関係者ではなく塾生として参加するORFには、これまでとは違う期待を抱いていた……のだが。 　いきなり「撮影禁止」の看板が目に入る。「情報公開が大事だ」ということは、震災以前・以後問わず、さんざん言われてきていることであるにも関わらず（今年は特に）、そうした状況下でもSFCはORFでの撮影を禁止にするというのだから、ちょっと（というか、かなり）残念に感じた。最後に参加した一昨年のORFは撮影禁止だったかな？　そもそも、その時はプレスで参加していたから、撮影はできたのだけれども……。 　話は少し脇道にそれるのだが、本来、慶應義塾は「社会の先導者」たることを目的としているはず。にも関わらずのこうした対応には、がっかりさせられた。「ホンネとタテマエはだいぶ違う」という日本社会のリアルを見てしまったな、と感じた。とはいえ、日本社会は実際にはクローズドであることを是としているのだから、今回のSFCの対応は（悪い意味で）「社会を先導」していると言えるのかもしれない。 政治家は礼儀作法を破っても無礼ではない 　今回、僕が参加したのはroom9で行なわれた「大震災：日本の教訓」と「アーキテクチャとしての恋愛」という二つのパネル討論である。今回、僕がその二つのセッションに興味を抱いた理由は、それらのセッションがそれぞれ「危機対応のずさんさ」と「少子化」という、我が国が抱える二つの問題について、何らかの処方箋を提示してくれるのではないかと考えたからだ。 　まず、「大震災：日本の教訓」では、総合政策学部の竹中平蔵教授、舩橋洋一教授、そして平野達男内閣府特命担当大臣を迎え、東日本大震災における危機管理と復興をテーマに対談が行なわれた。特に、危機管理の局面における「リスクへの対応」が焦点とされた。 　リスクへの対応においても復興においても「スピード」が重要であるということが、三氏の共通見解だ。地震や津波などの災害に対して素早く的確な対処を行なうことができなければ、その被害は拡大し、より多くの人命が失われてしまう。また復興においては、ライフラインやインフラの復旧に長い時間を要すると、その地域から人が流出してしまって、立ち直ることができなくなってしまう。スピードの大切さという問題意識を共有したうえで、司会の竹中氏は、素早い対応を可能にする組織はどうあるべきか、そのための制度をどうすべきかという、中央からの権限委譲と地方分権も含めた組織論・制度論をめぐる談義へと方向付けたかったようだ。しかし、肝心の平野大臣が、政治家にはおなじみのやり方でそれをかわすという、なんとも歯がゆい展開になったのが残念だった。 　我が国では、政治家という身分の人は、相手の質問に真っ向から答えず、時にはそこからあからさまに逃げたとしても、許されてしまう（平野大臣はあからさまには逃げなかったが、真っ向からは答えていない）。竹中教授としても、もちろん、平野大臣から必ずしも的確な答えが返ってこない可能性が高いことは承知したうえで、あえて話を振ったのだろう。しかし、議論の場においてこうした掟破りの振る舞いがあっても、その不当さを指摘することが「相手の身分」によっては許されない状況があり、なおかつそのような状況が存在することが正当化されているということは、我が国を蝕む重い病のひとつではなかろうかと思う。 　本来、議論においては、議論の礼儀作法を守ろうとしない人間こそが無礼であるはずなのに、日本の場合は（相手の身分次第で）その無礼を指摘する側の方が無礼だと見なされてしまうのだ。これは礼儀作法を守らない人々だけが悪いのではなく、礼儀作法を守らないことを注意しない人々も悪いのである。「どちらかが悪い」ではなく、礼儀作法を守ろうとしない人と、守らないことを許す人の関係性に、問題があるのだ。 「法を遵守しすぎること」が問題なのか？ 　法学博士の船橋洋一教授は、危機管理における課題を３つ指摘した。そのうちのひとつとして、日本人が「法を真面目に遵守しすぎること」が挙げられた。一般的にいって、日本人は法を真面目に守る人たちなのだが、危機管理の局面においては法令遵守が却って仇となりうる。法的な手続きをクリアしなければ次のステップには進めず、対策を実行に移せない。大切な「スピード」が損なわれてしまい、その間に被害が拡大する可能性があるというわけだ。 　確かに、日本人は（議論の礼儀作法は守れないが）明文化された法律はかなり律儀に守ろうとする。日本人の遵法意識の高さゆえに、逆に悪い結果がもたらされるということは、さんざん指摘されている。いわゆる「官製不況」（コンプライアンス不況）と見なされる現象がまさにそれである。しかし僕は「日本人の遵法意識が高い」ということに対して、少なからず疑問を抱いている。 　例えば、最近明るみにでた、オリンパスの巨額の不正経理をめぐる一連の動向を見てみよう。オリンパスの内部にあったのは、いかなる遵法精神なのだろうか。また、オリンパスの上場を継続させた東証の判断も、遵法精神という点では、かなり疑わしいのではないだろうか。オリンパス事件以外にも枚挙にいとまがないのだが、僕は、日本人というのは機に応じて法律を平然と破ることができる人たちではないだろうかと思っているのだ。 　僕としては、日本人は「法律を真面目に守る」人たちではなく、「真面目にやる」人たちであると考えている。これを言い換えると、日本人においては「法律を守ること」は行動の原理原則ではなく、「真面目にやること」が行動の原理原則になっている。日本人にとっては「法律を守る」ことが大事なのではなく、「真面目にやる」ことこそが大事なのである。 　それゆえに「真面目にやる」ことと「法律を守る」ことがイコールで結ばれているうちは、日本人は「法律を真面目に守る」のである。だがしかし、法律を破ってでも何かの行為をすることが真面目であると見なされるような状況下においては、日本人は「法律を真面目に破る」ことができる。たとえば、サービス残業は違法行為だが、違法のサービス残業を否定して定時で帰る労働者は不真面目と評され、違法のサービス残業を肯定してそれに従事する労働者は真面目であると評されるのが日本である。時として、法を遵守するよりも、法を破ることのほうが真面目だと評価される状況がある。 「真面目さ」はそれが向かう対象を必要とする 　日本人の行動を支配している原理原則は「真面目さ」である、という仮説に基づけば、日本社会のさまざまな現象をかなりうまく説明できる。真面目であるとは、いったい、「誰に対して」真面目なのか、あるいは「何に対して」真面目なのだろうか。実は「真面目さ」は、それが向かう対象を必要としているのだ。 　このような前提にたって、たとえば「我が国の官僚が省益ばかりを重視して、国益をまったく考えようともしない」という語りつくされた感のある問題を考えてみよう。官僚たちは自分が所属する省庁という組織に対して真面目であることを省庁から要求されるし、それには実行力が伴うのだが、国に対して真面目であることが国から要求されても、国という組織には実体がないし、それゆえに実行力は伴わない。だから、役人は省益ばかりを追求する一方で、国益を無視することができるのである。 　我が国においては「真面目さ」の向かう対象が多極的に存在している。それは、ある人が所属する組織や集団（中間集団）の数だけ、存在しているといってよい。なおかつ「自分の所属する組織や集団に対して真面目になれなければ、まともな人ではない」という考えが蔓延しており、日本人の大半はこれを肯定している。これは「子は父のために不正を隠し、父は子のために不正を隠す」ことを美徳とする孔子の教えをベースにしているのだが、あくまで親子の関係に限定されていた原理原則が、江戸時代の日本においては「家と家臣」の関係に適用されてしまい、さらに現代の日本においては「会社と労働者」「官庁と官僚」の関係にまで適用されているのである（このように、ある思想や物事の心を抜き取って日本流に置き換えてしまうのは、日本人の得意技だ）。公の決まりごとがどのようなものであろうと、組織にいるからには組織のルールに忠実であれというのが、日本人を支配する行動原理なのである。 　このような状況だからこそ、たとえば、政府に対して情報公開を要求したり、「オープンなリナックスのコミュニティって素晴らしいよね」とか、「自由に意見が交換できる風通しの良い組織だと生産性はやっぱり高くなるよね」などといってみたりしながら、いざ自分たちの側では写真撮影を禁止するという、ヨーロッパ的な理性や知の枠組みに基づけば明らかにダブルスタンダードと取れるような行為であっても、日本においてはあまり抵抗を感じることなく、両立可能になってしまうのである。「ホンネ」と「タテマエ」がだいぶ違っていたとしても、そのことで良心の葛藤や矛盾に思い悩む必要はない精神構造に形作られているのが日本人なのである。最重視されるのは「組織に対して真面目であるか否か」だから、それぞれの主張や行為の生産性の高さや論理的整合性、公益に即しているかの判断は後回しにされる。 　日本人が重視するのは、共通善や自然法のような大きな約束事（たとえば、情報公開が交流や意見交換を活発にし、生産性を高め、世の中を良くするというような考え）に即して行動するということではない。あくまで、自分の所属する組織や集団の倫理に対して真面目であることが求められる。組織や集団の倫理に対して真面目であれという原理原則に即していれば、公的な約束事に対する重大な違反や、論理的な矛盾などは、さしたる問題ではないのだ。 　少し話を脇道にそらすと、「真面目さ」の向かう対象が組織や集団の倫理であることが、正社員経験のない人間や、一度そこからドロップアウトした人間の就業問題を難しくしているともいえる。組織が労働者に求めるものは、労働生産性の高さ（スキルの有無）ももちろんあるのだろうが、それよりもむしろ「真面目さ」の有無が重視される。しかし、組織に属してこなかった人はその「真面目さ」が向かう対象をそもそも持っておらず、真面目かどうかを判断しにくい。仕事のクオリティに対してフリーランス（請負）の人々がどれだけ真剣であったとしても、組織からは真面目だとは評価される可能性は低い。それゆえに、真面目さを重視する組織に彼らが採用されることは難しくなる。 「真面目さ」が向かう対象をどこに置くかが問題 　僕としては「真面目さ」が向かう対象を、中間団体の倫理や生存戦略などの個別利益に置くのではなく、「経済成長重視」「安全第一」「環境保護」「人命尊重」「人間開発」「エンパワーメント」などといった、より大きなものさし（≒公益）に照らし合わせて考えるようにすれば、危機に際しても必ずしも法律遵守にこだわることなく、臨機応変に適切な行為をスムーズに導きだせるようになると思っている。そうなれば、たとえば「ワンコイン検診サービスのケアプロが、保健所から圧力をかけられる」というようなことも、少なくなるだろう。遵法意識よりもムラ社会の倫理が優先されることで公益が損なわれているのが、日本の実情なのだ。 　だからこそ僕としては、遵法意識の高さを障害だと見なす船橋教授の見解には異を唱えたい。船橋教授は、民間が組織する震災の事故調査委員会において危機対応を評価する立場にあるらしいが、敵の正体と、その敵が潜んでいる場所を正しく把握できていなければ、効果的な対策を練ることは一生かかっても及ばないだろう。それゆえに、僕たちは、当事者たる行政が組織したものでも国会が組織したものでもない、船橋教授らの第三者機関による「国民目線」の事故調査委員会が提出してくる意見書を、国が作ったものと同様、それなりに疑って見るべきだと思う。 　僕らがいま認知しなければいけないのは、多極的に存在しながらも圧倒的な支配力を有するような対象へと向かう僕たちの「真面目さ」が僕たちのクビをしめている、ということだ。「真面目さ」が向かう場所があちこちにありすぎて、かつそれぞれが強大な影響力を持っており、それらが対立するからこそ、いろいろなものがうまく機能しない。 　仮に、ものすごく強力で有能な政治家が突如出現し、抵抗勢力の抵抗を押しのけ、構造改革を断行し、どれだけ素晴らしい制度を作っても、多極的に存在する中間集団に所属する人々が組織に対する真面目さを貫き通すためには、そうした素晴らしい制度であっても破ることが組織から奨励され、時には強制され、それに従わぬものが排除されることさえ当然であると見なされるような社会においては、いかなる素晴らしい制度も事実上機能せずに形骸化するしかないだろう。これが我が国の抱える問題なのである。僕が安易な構造改革論には与しない理由がそこにある。要するに、これは政治の上流ではなく、中〜下流に存在する問題なのだ。 大切なのは「絶対化」しないこと、ダメなものはダメだということ 　勘違いしないでほしいが、ぼくは「絶対的な共通善を信奉して、それに対してあらゆる人間が向かえば、世の中はよくなる」などということは考えていない。むしろその真逆で、あらゆる倫理を相対化することが重要であると考えている。だから中間集団そのものの存在は、相対化を機能させるために役に立つと思っている。しかし、現時点の我が国においては、多極的に存在する組織・集団の倫理が当該組織・集団の中で絶対化されてしまっており、それが時には国家の倫理すら無効化していることを、ぼくは問題視しているのである。 　確かに、国家の倫理でさえも絶対化されてはならず、それは相対化されなければならない。しかし、この相対化されているという状態は、共通の倫理がそもそも存在していなかったり、存在していたとしてもそれがあまりリスペクトされていなかったり、無視されていたりするような状態を意味しない。相対化が機能している状態とは何か。それは、「複数の代案の存在をみとめて、それらを検討したうえでもって、今現在の理屈があえて選択されているのだということを人々が自覚しながら、それを尊重している状態」である。だからこそ、この相対化が機能している状態にあれば（オルタナティブな選択の可能性が常に開かれていれば）、多くの人を貫いて突き動かす共通の倫理が存在しても怖くはないのである。これは例えば、国家を所与のものと見なすのではなく、人々が社会契約によって創りだした「人造物」であると見なすような考えにも通じるものがあるだろう。また、SFCが掲げる自律・分散・協調も、相対化された大きな価値観を&#8221;あえて&#8221;共有する人たちの間においてのみ、機能するのである。 　しかし現実の我が国においては、国家の倫理が絶対化されることの危険性が（戦争の反省から）声高に叫ばれる一方で、中間集団の倫理が絶対化されることの危険性を指摘する声の大きさは「つぶやき」程度のものだ。このことは、国家を共同体たらしめるような公共の倫理や同意の形成を阻害する一方で、逆に中間団体の利害や関心がむき出しのポジショントーク（それは例えば「自己責任論」であったり、中小企業の労働者は日本経済と雇用の維持のためにサービス残業や育休制度の不備を甘んじて受け入れなければならない、権利を放棄しなければならない、という類の主張である）が大々的に通用するという、我が国の惨憺たる有様に繋がっているように思われる。 　こうしたことから察するに、日本人というのは、価値観が絶対化されることの危険性を、本当の意味では理解していないのだろう。いうなれば日本人は「価値観を絶対化するのは良くないよね」という言説を絶対化して、その真の意味をまったく理解せずにただただありがたがっているようなものであり、知的水準においては少々残念な状態に留まり続けている人々の集まりであると言わざるをえない。我が国は、ヨーロッパ人が育んできた知性や理性を形だけ輸入したに過ぎず、そこには心がないのである。だからこそ日本人は、国家の価値観が絶対化される全体主義の「可能性」に過剰なまでの怖れを抱き忌避する一方で、ごくごく身近な場所で「現実に」行なわれている中間集団による価値観の絶対化（洗脳）には、無自覚・無批判なままで居られるのだ。 　こうした僕の問題認識は、実は３０年前に、評論家の山本七平が提示したものとほぼ似通っている。少なくともこの３０年間、日本の学問、特に社会科学という学問はおそらくシンカ（進化・深化）していないか、シンカしていたとしても、世の中にほとんど影響を与えてこなかったのだろう。そして学問が社会思想や構造的問題に対する影響力を持ち得ない状況を正統化しているのは、それがたとえ社会的にまったくの無力であっても学問はそれ自体に価値があるとみなすような、教育および学問の「神化」（要するに「絶対化」のことだ！）なのである。その責任の一端は、公益ではなく自分が属する組織や集団に対して真面目でなければないけないという呪縛から、多くの報道機関・教育機関・そしてもちろん普通の会社やサークルとその中にいる人たちが脱しきれていないことにあり、写真撮影を禁止する慶應義塾もまたその強力な共犯者であることは間違いない。 　振り返ってみれば、ぼくが４月に入学して以来、事故当時の東電の対応を批判する慶應の教授はたくさんいたが、当時東電の社長を務めていた清水氏が慶應義塾大学出身であることを指摘し、彼の無責任さや、彼が東電を守ろうとする一方で日本社会のみならず全世界に対して行なっていた不義理を公に批判することができた人物は、ぼくの知る限りパトリス・ルロワ教授（フランス人だ！）しかいなかった。そのことを思い出してから、あらためてぼくが日本の将来について考えると、暗澹たる気持ちになるのである。 　恋愛のアーキテクチャについては、後日別のエントリで公開します。 山本七平日本資本主義の精神 (B選書)]]></description>
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		<title>言語について考えた</title>
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		<pubDate>Wed, 26 Oct 2011 14:54:36 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[日記]]></category>

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		<description><![CDATA[ツイッターから。 ついでに、構造について考えてみると、日本語がヨーロッパ言語と異なり可算名詞と不可算名詞の区別に無頓着なのは、日本語には格助詞があることと、表意文字すなわち漢字を活用するからではないかと考える。 回転ずしで食べた数を、un, deux, で数えるのがフランス人、一貫、二貫、あるいは、一皿、二皿で数えるのが日本人。数の後ろにくっついてる漢字が単位を表すのが鍵。 ちなみに日本人でも普通は一皿二皿で数えるけど、これは料金が皿の数でカウントされるから。こっちは回転寿司の構造。 もしも、ある人が「回転寿司の料金は皿の枚数で決まる」というルールを知らない場合(言い換えれば「『構造』の外にいる場合」)には、彼は食べた数を、ネタとシャリの組み合わせからなる寿司の数、つまり貫数で数えるはずだ。 で、フランス人の場合は、貫数っていう概念がない。 ただのun, deux ヨーロッパ言語の話者は一&#8221;枚&#8221;の皿の上に乗っている二&#8221;貫&#8221;の寿司を、一枚としてカウントしにくい。それはおそらく、ヨーロッパ語には枚や貫のような、計数を補助する言葉がとても少ないから。英語にも、a cup of, two cups ofなどはあるが、あくまで例外。 しかし日本語の場合、a cup of, two cup of という数え方、認識が普通だ。こういう認識を日本人に可能たらしめているのが、&#8221;枚&#8221;や&#8221;貫&#8221;といった言葉の存在。そして、&#8221;まい&#8221;や&#8221;かん&#8221;を判別せしめ、他とは違う&#8221;枚&#8221;や&#8221;貫&#8221;たらしめるのが、漢字の力。 あとは、じゃあなんでヨーロッパ言語は単数と複数の区別が問題になるの、って話だけど、それはヨーロッパ言語には、日本語と違って格助詞がないので、数の情報がなければ品詞を判別できないからだと思う。 結局あらかた書いちゃった。 こんなのどこかの言語学者がずっと昔に考えたはずだ。 まあ、ヨーロッパ言語には漢字がないから、数えられる概念の絶対数が日本語に比べてめっちゃ少ないってことですね。ヨーロッパ言語では数えられない代表格のsugarでさえ、日本人には、一粒、二粒で数えられる気がするけど、実際に数えてるのは砂糖じゃなくて、粒だし。]]></description>
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		<title>ブルデュー＆ヴァカン『リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待』</title>
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		<pubDate>Fri, 16 Sep 2011 13:13:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[レビュー]]></category>
		<category><![CDATA[社会と政治]]></category>

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		<description><![CDATA[「抵抗が人を阻害し、服従が人を解放しうる」 　それこそが「支配される側に置かれた人々のパラドクス」であるとブルデューはいう。労働者、女性、マイノリティが従属するのは、よく考えた末に自覚的に譲歩したからではない。そこでは、合理的が選択が行なわれているわけではない。 　産出配分（エコノミー）を、経済決定論に基づく一般論として、あるいは合理的な選択の一種として解釈する人は、以下の2点において誤っているのだとブルデューはいう。すなわち、 潜在的に活性化された行為を、明白に認められた目的や利益に向かう合理的な振る舞いだと誤って解釈する 明白に認められた目的や利益の範疇がせまい（言い換えると、経済的な目的のみだと解釈しやすい） 　１については、述べる必要はないだろう。２は、明白に求められた目的や利益が、経済的な目的や利益としてのみ捉えられがちだ、ということである。明文化されていない、可視化されていない、非経済的・非物質的な利益のために、人が動いている可能性がある。しかも、人は自分の欲求に従うのではなく、集団≒システムの欲求に従って、その行為を行なうのである。 僕たちは皆、ゲームの参加者なのだ 　ブルデューといえば「ハビトゥス」の概念が有名だが、僕は彼の「界」という考え方が気に入った。ブルデューによれば、「界」とはゲームに近いものである。そこには参加者＝プレイヤーがいる。しかしゲームと異なり、「界」は、誰かによって考案されたものではない。「界」は明文化も成文化もされていないような規則性に従って動き、そこにはプレイヤー同士の競争の産物である「掛け金」がある。プレイヤーはゲーム自体にも、「掛け金」にも承認を与えている。そしてプレイヤーは、自らがもつ有形無形のあらゆる資本を活用し、投資し、競争相手よりも有利な立場を築いて、この「掛け金」を回収しようとするのである。 潜在的な力と顕在的な力からなる力の場として、界はこれら力の布置を存続させたり変容させたりすることを目的にした争いのくりひろげられる場でもあります。さらに界は有力な位置のあいだの客観的関係の構造として、あらゆる戦略の基礎になっていて戦略の方向を定めています。界の中の有力な位置を占める者たちは、自分の位置を守ったり向上させたりするため、そして自分自身の生産物にもっとも好都合な序列化の法則を押し付けるため、個人としても集団としても、あらゆる戦略を練り出すのです。言い換えれば、行為者たちの戦略は、界における、すなわち特定種の資本の分布における行為者たちの位置に依存しており、彼らが界をどのように認識しているかに依存しています。つまり界に対する彼らの視点なのですが、この視点自体、界のなかでの位置にもとづいて採用されている視点にほかなりません。 ゲームの展開や中身は常に変わる。ルールでさえも。 　「界」の中においては、プレイヤーのあいだに力関係があり、その状態が界の構造を規定している。プレイヤーはゲームのルールに従って自分の手元にある資本を増やそうとするだけではなく、ゲームのルールを変えようとするかもしれない。 　さらに、「界」には特定の目的があるわけではない。ブルデューは「それ（界）は装置のように特定の目的を遂行するようにプログラムされた秘密仕掛けの爆弾ではないし、社会的な世界のなかで起こることのすべては邪悪な意思のせいだとみなすような陰謀思想には与しない。学校制度、国家、教会、政党あるいは労働組合は装置ではなく、界である。」と述べている。 　「界」の特徴とは、界の中では常に争いが生じている、という点にある。「界」の中の力関係は常に変化していて、その力関係から生じるアウトプットも、特定の意図や方向に向かって動くわけではない。その意味で「界」は歴史的なのである。また、界の外側を規定する境界線も絶え間なく変化している。ブルデューによれば「界において優位に立っているものは界を自分たちに有利なように動かす立場にありますが、それでも常に劣勢な側の政治的・非政治的な抵抗、異議申立て、権利の要求や主張と争っていかねばならない。」のだという。 　政官財学マスコミによる癒着、絶大な影響力を行使している東電など、優勢の側にある者たちも、劣勢な側の異議申し立てと闘わねばならないし、優位な者たちの意図通りにことが進む保障などはない、ということか。もちろん、そこには対立の積み重ねという、歴史的な要素が絡んでくる。 国家とは「界」の集合体である 　「国家」という言葉が意味するものは、境界がはっきりした単一の現実として国家がある、ということである。そして、自分たちの国家と同じくはっきりとした現実として存在する外的な勢力に対して、（敵対的であれ友好的であれ）お互いに外側の関係にある、ということを前提にしている。 　しかし、こうした概念的な「国家」観に距離を起き、現実の我々を取り巻いている国家の中に目を投じてみると、それは実際には「行政の界もしくは官僚制の界からなる全体（界の集合）である。」ということがわかる。 　これらの「界」の中において、行為者たち、あるいは特定の行為者集団は、彼らが政府に属していようとなかろうと、個人的にであろうと代理人によってであろうと、特定の形態の権力をめぐって争っているのだ。 　そのような観点に立てば、「国家が暴力を独占する」といった、ウェーバー的な国家観は修正を余儀なくされる。国家とは「界」の集合体であるが、それぞれの「界」の中では、誰が優位に立つのかという競争が常に繰り広げられている。正当な象徴暴力の独占を争点として諸勢力が争いを繰り広げる界の集合が、国家なのである。 　東電などの大企業優遇と取れる政策を政府が常に打ち出し続けているのは、国家が東電と癒着しているからではなく、東電が権力争いに勝利をおさめており、権力の独占に最も近い場所のひとつに位置しているからなのだと解釈できる。 リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待 ―ブルデュー、社会学を語る]]></description>
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		<title>ラクをしたいのでブックスタンドを買ってきた</title>
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		<pubDate>Tue, 13 Sep 2011 12:50:19 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[未分類]]></category>

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		<description><![CDATA[机に向かって読書すると疲れますよね 　まあ、本なんて好きな場所で好きな姿勢で読めば良いんですけど、しっかりと読み込む必要がある本をしっかりと読み込んで勉強した気になりたい場合は、やはり机に向かって読むのが一番それっぽいです。でも、机に向かって読んでるとつかれるんですよね……というわけで、本を読む際の疲労を軽減してくれるブックスタンドが欲しいなあと思い、先日、東急ハンズ新宿店の文具売り場を見てきました。 　文具売り場には読書用品のコーナーがあって、ブックスタンドの他にもブックカバーとかブックエンドとかしおりとか、読書に役立つアイテムがたくさん陳列されてました。目的のブックスタンドの価格帯は、大体1,000円～6000円くらいだったんですが、の価格で置いてあったんですが、買ってきたのは事務用品で有名なカール（CARL）の 『ブックスタンダー NO.820 ブラック NO.820-K ブラック』という製品。ページを固定できるアームが付いていて、手ぶらで本を読めるので便利です。集中できます。 固定できる本の大きさは、文庫本サイズからB6ハードカバーまで対応。 左右のアームは独立しており、それぞれ別々に動きます。便利。 スタンドの角度は７段階に調節可能。デスク周りの環境に合わせて使用できます。 折りたためば本と本の間など、ちょっとしたスキマにも収納できます。 机の脇においてみた。挟んでいるのは１Ｑ８４のＢＯＯＫ３。厚めの小説もＯＫ。 　この製品、1,680円は正直安いと思うのですが、弱点もあります。A４版の本は大きすぎて、ページをしっかりと固定できません。大きめの版型のムックや雑誌、たとえばフォトショップとかインデザインなどのIT系アプリのノウハウ本～などを脇において、それを見ながらパソコンで作業を進める、といった使い方はできないので要注意です。そういう用途であれば、もっと大きめのものを探すべきでしょうね。そのうち、自分も探そうと思ってます。 カール ブックスタンダー NO.820-K ブラック]]></description>
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		<title>先日の投稿のリプライへのお返事</title>
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		<pubDate>Mon, 12 Sep 2011 13:33:41 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　先日、アゴラに寄稿した記事に対してTwitterでいただいたリプライの中から、批判的なご意見への返事をここに書いておきます。 減点らしい。こういうアンポンタンは、ブログなんて書かなくて良いんじゃないのか？被災地の視察時間と政治手腕のどこが関係あるんだ？重箱の隅突っつつきあいは勘弁してほしい。 　ぼくにとっての政治手腕は「政策を実現する能力」です。いいかえると「自分と意見の異なる他人から同意を引き出す」という能力ですね。特に今回は「敵の敵は味方」みたいな論理で成立した内閣ですので、いざというときに仲違いはするでしょう。たばこ増税に関して、安住さんと小宮山さんがさっそく意見の食い違いを見せていますが……。いざという時に政策をきっちり通せるように、国民の人気を得ておくことが肝要ですよね。視察時間を増やすといった「急がば回れ」的なことが大切になってきます。 　次のご意見。 政治下手なんじゃない。そういうレッテル貼りをこういう奴らが付けるからいけない。「１０分しかいなかった」とか「被災地の方は不満に感じておられる“とか”」だってよ、くだらなすぎる。大した問題じゃないのに、騒ぎ立てて、それをもって政治下手とかいうレッテル貼りをしてる評論家ってなんなのかね？ 　日本の政治は「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が問題になるというレベルなので、イメージ作りはとても重要です。くだらない問題には違いないのですが、それについて「騒いでいる人がいる（らしい）」ということ自体を政治家は軽視してはなりません。有権者はパフォーマンスにころりと騙されますので、政策を通したいならパフォーマンスを積み上げてイメージを作っておくべきです。首相は睡眠時間を１時間削ってでも、視察の時間を１時間増やしたほうがよかったと思います。その人がどれだけナイスなアイディアを持っているかはあまり評価されないので、まあせっかく人前に出てきたときは、イメージ戦略を徹底すべきかなーということです。目に見えないところでは当然必死になるべきですが、目に見えるところでも必死な姿を見せるべきです。 　まあ、とにかく現状では「野田首相は支持率が下がるようなことをしないほうがよい」ということです。支持率が下がれば、党内で意見を一致させることは難しくなりますし、そこがダメで解散に踏み切っても、選挙で勝つことは難しくなりますから、日本を復活させるような好手を彼が持っていても、それが通らない可能性はあります。「この状況では正論を振りかざすよりも、ちょっと関係ないところから外堀を埋めていくような計算高さが野田さんには欲しかったけど、どうやら持ってなさそうだよね」という感じでしょうか。 人を巧みに動かす心理術 ―なぜ、あの人の頼みは断れないのか? (知的生きかた文庫)]]></description>
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		<title>アゴラに寄稿しました。</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Sep 2011 11:43:59 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[おしらせ]]></category>

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		<description><![CDATA[野田首相、早くも減点。“政治下手”の馬脚を現す &#8211; 田下　光 http://agora-web.jp/archives/1380205.html 自分の立場や能力を活かせる仕事をやったほうがいいですね。分業、分業。]]></description>
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		<title>野田首相、早くも減点。“政治下手”の馬脚を現す</title>
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		<pubDate>Sat, 10 Sep 2011 11:41:15 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[社会と政治]]></category>
		<category><![CDATA[分業]]></category>
		<category><![CDATA[政治]]></category>
		<category><![CDATA[社会]]></category>

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		<description><![CDATA[首相、台風１２号の被災地視察をそそくさと切り上げ 　野田首相が先日の台風で多大な被害を被った那智勝浦町のお見舞いを１０分程度で切り上げたそうです。それを被災地の方は不満に感じておられるとか。 ・野田首相、台風１２号の被災地を視察 http://news24.jp/articles/2011/09/09/04190301.html 野田首相は９日午後、台風１２号によって甚大な被害を受けた和歌山・那智勝浦町を視察した。しかし、被災した住民に直接話を聞くような場面は見られず、住民からは不満の声も上がっていた。 　ブッシュ前アメリカ大統領も、ハリケーン『カトリーナ』への対応で下手を打って支持率を大きく落としていましたね。我が国でも、枝野前官房長官が原発周辺の視察をすぐに切り上げて、大ひんしゅくを買ってしまったのが記憶に新しいところです。なんだか、経済とか外交とか安全保障とかいった、国家レベルのでっかい難題を抱えている国の指導者とか政治家は、「被災地の視察」を軽視して後回しにする傾向がありますよね。 今、視察よりもプライオリティの高い首相の仕事って、あるの？ 　被災地からさっさと出ていく政治家の対応は、「気の毒だから一応お前らのことを見に来たけど、俺には他にもっとやるべき大切な事があるんだよ。そこんとこ、わかってね」というメッセージを、内外で受け止められかねません。たしかに「他に仕事がある」「忙しい」というのはその通りでしょう。一国の首相たるもの、被災地の人心を落ち着けることばかりに気を砕いているわけには行きませんものね。 　それでも、もう少し滞在時間を長くすべきだったと僕は思うのです。 　野田首相がやらなければならないことは、一にも二にも増税（の道筋をつけること）です。政府としては、復興増税をしたい（そこを橋頭堡に恒久的な増税にまで踏み込みたい）。それなのに、政府の長たる首相が「他にもたくさん仕事はある」的に被災地の視察をおざなりにして、復興のプライオリティを下げて見せるのは、復興税の重要性を国民に理解させるのにはまったくもってマイナスです。 　地震にせよ、津波にせよ、洪水にせよ、地滑りにせよ、災害の被害にあった地域の復興を、国家が増税を行なってまでやる価値または必要があるということを、首相はどうやって国民に納得してもらうつもりなんでしょうか。被災地の視察は単なるアリバイ作りではなく、復興のための増税を国民に納得させコンセンサスを取り付けるための「儀式」として、高い意識を持って望むべきです。もしや本気で「財政危機」の路線から斬り込んでいくつもりだとしたら、政治家としてのセンスはゼロだなと思います。 　まあ、政府としては、たとえ国民を納得させられなくてもとにかく増税はするという既定路線なんでしょうね。しかし、そんなふうに国民のあいだでの合意形成をすっ飛ばして政策を実行してきたことが、小泉純一郎以外の首相が不人気だった理由ではないでしょうか。理解が得られない政策の理解を得るための宣伝の重要性を、小泉以降の政治家は過小評価しすぎています。 　復興税の仕組みをどうするかとか、党内の調整をどうするかとか、野党との調整をどうするかとか、他にも円高だとかロシアの挑発的行為の対応だとか、他にもいろいろと片付けるべき問題はあるのでしょう。しかし、本来、行政府のトップたる首相が最も影響力を発揮できるのは「国民に対する訴えかけ」の部分でありましょう。増税に対する党内・国会内での利害対立をまとめることよりも、野田首相は何よりもまず「国民に対して語りかける」ということに注力すべきであったと僕は思います。 　首相は首相の立場を存分に利用して、首相にしかできないこと、首相こそが一番効果的に行えることに尽力すべきです。 残念な人の仕事の中身 ～世界中の調査からわかった「組織で評価されない人」の共通点]]></description>
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		<title>事情があって臨時でお休みです</title>
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		<pubDate>Fri, 09 Sep 2011 10:26:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>heine</dc:creator>
				<category><![CDATA[おしらせ]]></category>

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		<description><![CDATA[本日、記事を書いてアップもしたんですが、ちょっとした勘違いから公開できない事情があったので該当記事の公開を一時的に停止しました。文章の内容とかは関係なく、手続き上の問題です。該当記事は、後日再公開する予定でいます。]]></description>
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