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【エッセイ】社会学者が自爆を避けるひとつの方法

先日の盛山和夫本の書評への追記的な記事。

社会学者や社会学理論のダブルスタンダード、もしくは「ブーメラン」と言われる現象について語ります。

盛山によるルーマン批判の要は”「内部にいる個人にとってあたかも社会システムが意味を付与しているかのように見える」ということと、「実際に、システムの側が意味を付与している」ということとが区別されていない~観察者がどこにいるか、彼にとって世界がどのように見えるか、ということと、世界が実際にどのようであるかということとは、原理的に区別されなければならない”という点にある。

この点に関しては賛同できる部分もあるのだが、フェアではない。ルーマンが「観察者にとって世界がどのように見えるか/世界が実際にどのようであるか」を区別していないわけではないからだ。ルーマンは、「どのように見えるか」の理論は「実際にどのようであるか」という現実に対して責任を引き受けねばならないと述べている。少なくとも、システム理論はシステムであるものすべてに例外なく妥当する理論でなければならないと明言している。それが(ルーマンとそのフォロワーに)うまくできているかどうかは別として……。

また、盛山の立場は”個人に外在する意味付与主体が存在するかどうかは、簡単には決着のつけがたい問題であるかもしれない。それが存在すると仮定して社会理論を組み立てていくこともできるだろうし、仮定しないで出発することもできる。本稿はそういう主体は存在しないという理論仮説を採用したいと思う。”というものである。

しかし、これはルーマンも同じようなことを言っている。つまり、どちらからでも出発できるが、ルーマンの場合は盛山の逆で「個人に外在する自己言及的なシステムが存在すると仮定して社会理論を組み立てていく」と言っているに過ぎないのだから、「最初の前提においてルーマンは不当だが盛山は妥当」と結論づけるには根拠が足りない。そもそも、盛山が要求する客観的事実の水準に則して語るとすれば、「個人や主体が存在すると考えている人々がいる」ということは客観的事実ではあるものの、そのことは実際に個人や主体が存在するかどうかとは区別されねばならない。

このように、自分が自分の理論で他者に要求していることを自分の理論に対しても適用すると破たんするのは、社会学者のお家芸である。こういうことを指摘すると「ゲーデルの濫用だ! これだからポストモダンは!」などと逆ギレする思想家や学者がいるのだが、べつに不完全性定理を適用するまでもなく、「理論を自己言及したら理論が破たんした」ことが実際に観測されているわけだから、自分の理論が要求する水準を自分の理論が満たしていないという「客観的事実」について観測者に弁明する責任は、その破たんしている理論を提示した当人のほうにある。観測者=批判者の思想や態度を非難しても、批判された当の理論に破たんがないことにはできない。

こうしたぶざまな事態を避けるには(いくつか方法があるが)、理論が理論自身に「再帰」することを考慮して理論を構築することが真摯なやり方だ。ルーマンは自分のシステム理論が分析や認知に関するシステムを対象に含むこと、つまりシステム理論がシステム理論自身を対象にするということを自覚していた。だから自己言及-再帰に耐えうる理論を構築しようとしたのだった。(いいね!)

なお、そのせいもあって非常に難解な文章が量産された模様。(よくないね!)

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