「テキストに知性があるかないかを見分ける10のポイント」という、今回話題にするエントリは、タイトルを読むかぎりでは「テキストに知性があるかないかを見分ける方法」について書こうとしている。が、実際のところは修辞法の話題に終始しているため「看板に偽りあり」の感は否めない。要は文章読本の類を2・3冊読めば手に入れられる情報の再編集だから、ぼくとしては佐藤信夫の『レトリック感覚』や谷崎潤一郎の『文章読本』へのアフィを貼り付けでもして「コレ読んでね」とやったほうが有意義なんじゃないかと思ったのだが、そうした知識を持ち出し自分なりに咀嚼してみせることで、aureliano氏は何を伝えようとしたのか。
おそらくは「テキストには知性が宿る」的なことを暗に語りたかったのだろう。しかし、そのために彼が用意していた10の秘訣は、テキスト
の知性うんぬんを語ることよりは、文章を練ることへの気配りであるとか、技能的なことを語るのに適した素材だった。自分が主張したいことに対して適切な材
料を揃えることができなければ、そのことを無理に主張すべきではない。必要な知識や情報を集めるという地道な努力を欠いてはならないのだ。
主張というものは、適切な素材を積み重ねていくことで結論が自然と姿を現し、正当性を帯びてくるのである。誠実な書き手、書き慣れた書き手というのはそのような方法をとる。反対に不誠実で不慣れな書き手は、まずは「自分の主張・結論ありき」で書き進めようとする。こうした不慣れな書き手は、基本的には、途中で結論を変えたり、自分の主張を曲げたりということにはなかなか思い至らずに、手元にある使い慣れた材料を上手にやりくりして、最初に思いついた結論や主張の中に組み入れようとする。不慣れといっても、別に文章を書く技術が欠如しているわけではないので、それなりの文章に仕上げることは可能だ。だが、そうして生み出された文章には、腑に落ちない何かがつきまとう。ごまかしを見抜けない読者を欺くことはできるが、そうでない読者からは不興を買ったり、反駁に晒されたりする。
そもそも、そんな文章を書くためにアタマを使い、時間を使うのはもったいないことだ。また、読まされる側にとってもたまったものではない。書き慣れた書き手はそのことをよく理解している。だから、自分の持っている素材を使って、いったい何が語れるのかをきちんと見極め、自分が主張したいことと素材とが一致しなければ主張か素材かを再検討する。自分の文章を正当なものだと印象づけるために、結論を変更するか、素材を集め直すという習慣を身につけている。このような書き方でなければ、知というものに敏感な読者に支持されるのは難しいだろう。aureliano氏がそのような書き手になることを望む。
追記。
誠実・不誠実という言葉が誤解を招きかねないため記す。これらの言葉は、書き手が本当のことをいっている・いない、ウソをついている・いないというような意味で用いたのではなく、自分の文章や意見に対してちゃんと筋を通しているかどうか、材料を吟味して適材適所に用い論理的に文章を組み立てているか、その努力を怠っているのか・いないのかという意味合いで使用した。主張の方法について誠実か不誠実であるかを問うものであり、主張の内容そのものについてを誠実か不誠実であるかを評価するものではないことを留意されたし。

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