佐藤優氏のススメに従い、「精神現象学」(作品社刊 訳:長谷川宏)を読んでいます。
大学生の時に図書館で借りたものの、あまりに難解(というか論点があちこちに飛びすぎ)であったため、半分も読めなかったというシロモノ。
講談社選書メチエ「ヘーゲル『精神現象学』入門」と一緒に読み進めているのだが、そんな味方がいてくれたところで、「精神現象学」は難攻不落だなという感じ。
5分もすれば眠くなる。
10分もすれば寝る。
哲学書はなんでこんなにも退屈なのか。
自分の知恵が足らないせいだ、とはなるべく結論づけたくない。
できるかぎり他人のせいにするべく、考察してみた。
思い当たったのは、訳語=コトバの選択、使われ方の問題である。
たとえば、矛盾というコトバを検討してみよう。長谷川宏さんはヘーゲルの主張について「物はさまざまな性質をもつとともに、一つの物としてまとまりをもっている。そうした物の矛盾するありかたを、外に向かう力と内にむかう力の矛盾する働きとして捉える」と指摘をしている(『入門』P110)。これ自体はぜんぜん難解な文章ではなく、すんなりと頭に入ってくる。しかし、それが罠なのである。
矛盾とは、もともと(韓非子が用いた意味において)は「論理的に成立しない」ということを指すコトバである。つまり、長谷川さんがいっているような「ひとつの物の中で外に向かう力と内に向かう力が同時に存在しうる」というような現象は、けっして両立し得ないこと=韓非子的な意味での矛盾ではないハズであり、このようなもののあり方に対して、矛盾というコトバを当てはめると、本質を見誤りかねないのだ。この場では、矛盾よりももっと適切な訳語があるような気がする。私たちの感覚として「それって矛盾じゃないのでは?」と感じられるものに対して、哲学書では矛盾というコトバを当てるから、わかりにくくなるのではないか? いや、そうでなければ、矛盾には私の知らない別の意味があるというのか。やはり、勉強が足りないのだろうか......。
そこで広辞苑を引くと、矛盾にも「相互に排斥しあうような事物・傾向・力などの関係」という意味が含まれていることがわかる。こちらは明治15年の「哲学字彙」(井上哲次郎)によるcontradictionの訳語=「和製漢語」であることが紹介されている。contradicitionとは、contra(「逆」とか「反対」の意)とdiction(「言い回し」とか「語法」の意味)を組み合わせたコトバであり、第一に否定、反論、反対の主張を意味している。相互に否定し合うからといって、それは必ずしも両立ができないということを指してはいない。一方の矛盾は韓非子的な意味では辻褄があわないこと=間違いを意味する言葉であり、contradictionのような「反論」という意味合いは薄い。この矛盾は、辞書や学問の中にしか存在しないカギ括弧付きの「矛盾」なのだ。
哲学におけるcontradictionとは、たとえば「毒とは人体に害をもたらし、薬とは益をもたらすものだ。酒は人体には害と益の両方をもたらしうるものだ。だから酒は毒であり、かつ毒ではない。酒は薬であり、かつ薬ではない」という単純な論法から一歩進み、「これではなんのことかわからないから、最初の前提を再検討してみよう、毒と薬とはそもそもどういうものなのか、それを考え直してみようじゃないか。そうすれば、毒や薬や酒について、私たちはもっと深く知ることができるかもしれない。それ以上のことも、わかるかもしれない」という論理や思考のあり方、道筋に立ち返っていく姿勢を示したものだとぼくは理解している。そんなcontradicitionに対して、「矛盾」をあてがって代用品とした「哲学字彙」=井上哲次郎の仕事が適切であったかどうか、その成果を今も使い続けることが適正であるかどうかは、問われてしかるべきだろう。
もっとも、哲学書の類に関しては、読む側のほうが「矛盾にはそういう意味もある」ということを理解した上で読み進めるべきだというのは理解できる。つまり辞書を引けよ、勉強しろよということであり、自分の身体に染みついた感覚ではなく、学問的な知識に裏打ちされた視点をもって読み進めなきゃ見誤るよ、意味は通じないよ、ということなのである。......ご説は重々ごもっともですが、そういわれましても「前提に立ち返ってモノゴトを深く考えることで、対象のことがよく見えてくるような討論、検討、研究のあり方を西欧ではcontradictionと呼んでいるが、日本ではそれを『矛盾』と呼ぼう」なんてことにされたら、意味が通じにくいわけでして、あんまり適当な訳語をあててんじゃねえよ、と怒りたくもなるわけです。このようにして当てられた訳語は、本来の語源から自然に派生したり、あるいは論理が飛躍せずに合理的ですんなりと受け入れられるものばかりとは限らないし、上からの押しつけとか時代の必要に応じて無理矢理作られたとか、学者の恣意だったりやっつけ仕事だったりの突貫工事に過ぎないこともありうるわけです。なので、読み書きする人は今一度そうしたコトバの意味を徹底的に調べ直すべきなのではないかと思った次第。
本を作る・書く立場の人間からすると、「辞書に書いてあるからこの意味で使ってイイな」とするのではなく、「たしかに辞書に裏打ちされてるんだけど、これだと読者に伝わりにくいから、別のを探そうかなあ」と、再検討することが大事なんじゃなかろうか。世にある哲学書が、たとえ「入門書」と銘打ちつつも、やっぱりわかりにくく感じられてしまうのは、日本人にとっての哲学用語ってのがしょせんは借り物のコトバでしかないのに、そのコトバの洗い出しであるとか、再検討の努力が足りないからなのだろうな、と思った。もちろん、明治時代から現在にいたるまでの日本の哲学研究の場において、矛盾という言葉が井上哲次郎的な意味合いにおいて使われてきたのだから、そうカンタンには変えられないなあ、ということはあり、そこには利便性があるのだろう。だけど、利便性の上に安穏と座しているのは哲学の本意ではないだろう。
日本の哲学者や哲学書には総じて努力が足りない、といってよいのではないか。
と、人のせいにしてみた。
↓そのへんを頑張ってくれている本がコレ。

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