「テキストに知性があるかないかを見分ける10のポイント」という、今回話題にするエントリは、タイトルを読むかぎりでは「テキストに知性があるかないかを見分ける方法」について書こうとしている。が、実際のところは修辞法の話題に終始しているため「看板に偽りあり」の感は否めない。要は文章読本の類を2・3冊読めば手に入れられる情報の再編集だから、ぼくとしては佐藤信夫の『レトリック感覚』や谷崎潤一郎の『文章読本』へのアフィを貼り付けでもして「コレ読んでね」とやったほうが有意義なんじゃないかと思ったのだが、そうした知識を持ち出し自分なりに咀嚼してみせることで、aureliano氏は何を伝えようとしたのか。
おそらくは「テキストには知性が宿る」的なことを暗に語りたかったのだろう。しかし、そのために彼が用意していた10の秘訣は、テキスト
の知性うんぬんを語ることよりは、文章を練ることへの気配りであるとか、技能的なことを語るのに適した素材だった。自分が主張したいことに対して適切な材
料を揃えることができなければ、そのことを無理に主張すべきではない。必要な知識や情報を集めるという地道な努力を欠いてはならないのだ。
ネットの匿名性についての最近のブログ記事
佐藤優の『国家の罠』に連合赤軍絡みのエピソードがあった。それが気になって、共産主義とかその周辺の話題、用語についていろいろとググり、あちこち見てまわっているうちに、興味深い記事にたどり着いた。
言葉に乱れなどないとうそぶく人が、まず真っ先に言葉の乱れを言い始める
ハックルベリーに会いに行く(aureliano氏)
こういう記事を読むと「ああ、俺って普段から言葉をテキトーに使っていてゴメンナサイ」と、とりあえず土下座でもしておこうというよりマジ鬱だ死のう的な気分にさせられるのですが。それはさておき。
このブログのエントリをいくつか読んでみたところ、このブログの作者は論客としてはうるさいので「あんまり敵に回したくないなー」と直感したというのが正直な感想なのだけれど、それでもまあ、上に引用したエントリについては、個人的にはまったく肯定しかねる部分もあったので、備忘録的な意味でもここに書き残しておこうと。
これより先を読み進んでいただく前に、しばらく前に各方面で話題になった「日本語の乱れ」の問題について、おさらいをしていただければ幸いです。面倒くさければ飛ばしてください。
・文化庁:平成19年度「国語に関する世論調査」の結果
・msn産経ニュース:足元をすくわれる? 7割が誤用と世論調査
・タケルンバ卿日記:言葉に乱れなんてない
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1217441641/(2ch現行スレッド)
「MCプレス」に関するブログ記事(Google検索)
MCプレス解散についてはこちらを参照
http://www.mcpress.co.jp/info/info.pdf
http://www.mcpress.co.jp/info/info3.pdf
http://www.mycom.co.jp/topics/index.html
10秒でわかるあらすじ
http://zarutoro.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_55bd.html
道徳という錦の御旗を振りかざし、自分が正しい場所にいると信じて、自分は正しい側にいるのだからと自己を盲目的に正当化し、そうして他者をヒステリックに、執拗に、攻撃するなどという行為が、いったい何を生み出すのだろうか。
マスコミを叩きたいなら叩けばいいと思う。だけど、それはどこに行き着くのだろうか。
マスコミを叩くことによって、我々は何を求めるのか?
何が実現されたのか?
マスコミは特権を不当に享受している、だから叩くのだという人がいる。けれど、民放キー局、全国紙、集英社講談社小学館などの大手でもない限り、メディア(ことに出版)で働いている人は将来が不安定な労働者に過ぎない。サービス残業が常態化した法的に不当な労働条件、安月給で働いている。「表現の自由」などというような崇高な理念からはかけ離れた場所で、日々の生業として出版に携わっている人のほうが圧倒的に多い。
そんな会社のひとつを解散に追い込み、そこで働いてる編集や営業、下請けの編集プロダクション、デザイン事務所やデザイナー、ライターやカメラマンから仕事を奪い、将来生まれたかもしれないクリエイティブの芽を摘んだだけではないだろうか。
マスコミに限った話ではなく、「○○はこうあるべき!」という理想像を部外者が勝手に掲げて、それにそぐわない、不適切な行状の団体や個人を、魔女狩りよろしく吊し上げている。休刊は当然のこと、回収もすべきだ......こう主張する方もいる。理想をいえばそうだろう。だが現実問題として、ひとたび流通に載せた雑誌を回収することに、版元はどれだけのコストを強いられるのか理解したうえでの発言だろうか。雑誌の収益は本そのものの販売のみから生まれるのではなく、広告による収入も大きい。雑誌を回収するということは、広告の掲載期限が過ぎ去る前に、広告を撤去するということである。つまり、そこには違約金が発生する。無理にでも回収すれば、会社の経営は傾き、多くの労働者が解雇者される、といった事態もありうる。さらに、雑誌を作っているのは出版社の社員だけでなく、そこに関わる編集プロダクション、デザイン事務所、ライター、カメラマン、印刷所、トーハン・日販などの取次ぎ会社など、多くの人が収益を得る機会を失う。そこには、新たな社会不安が立ち現れる。安易に「回収すべきだ」と批判を行う人間は、どれほど業界の構造について知っているというのか? それを理解しているにせよ、あるいはしていないにせよ、「いかなる犠牲を払ってでも回収しろ」と強く主張するのならまだ話、というか心意気はわかるのだが、その理想に思える行為を推し進める代償として、どれほどの痛みが伴うのかを正しく理解し、果たしてこのライン以上進んでよいのか、ひくべきなのかをまちがいなく見極め、行動しなければならない。理想を追い求めたあまり、現実では手痛い仕打ちを受ける。そんなことになりかねない。小泉改革のようなことになる。
道徳やら社会的な常識、理念理想に照らし合わせて「こうすべきだ」ということはたやすい。が、出版社というのはしょせん株式会社=営利企業なワケであって、株主でもない周囲の人間が「回収しろ」といったところで、それに従う義務はないワケです。潰れろといわれて「そうします」と潰れる会社は、まずない。利害関係で結ばれていない会社に対して「社会通念に照らし合わせてこうすべき」と要求し、それに従わないのは「けしからん」といってしまうのは、見ず知らずの女性に対して自分の価値観を強引に押しつけて、従わないのはけしからん、というのと同等のろくでもない主張であることに、さっさと気づいた方が良いだろう。
自分が一切関わっていない他人、あるいは団体に対してこうすべきだ、と主張することに、何の意味があるのだろうか。会社は公器であるからとの意見もあるが、実態がそれにそぐわない会社が多すぎる。ことさらマスメディアだけが叩かれるのは異様に思える。もちろん、お役所などの真の意味での公的機関に対して文句をいうのは国民に認められた権利であると思うし、役所はそれに応えるべきだが......話はそれたが、本来、今回の騒動で「怒る」べき人間は、マイナビに関わった、あるいは関わっている学生や企業であって、それ以外の人間が怒るというのはどうもしっくりこない。筋違いな気がしないでもない。別にエロ本を作ることが法律で禁じられてるわけではないし、セックスしたら罰金だーとか死刑だーとかいわれてるわけではないので、要点をまとめると、就職情報サイトをやってる会社の子会社が、親会社の事業をネタにしてエロ本を作ったという話になる。大多数の人間にとっては利害関係がないので「だから何なの?」「そんな大騒ぎするほどのことなの?」というのが、本来あるべき反応だと思う。今回は、毎日問題の延長線上にあるから、あるいは、わざわざ力のあるメディア「文春」が問題だと取りあげたから、問題だと感じている人や、そこでモノを申さないわけにはいかないでしょう! と張り切っている人のほうが圧倒的に多いのではないか。
日本には自分の問題には立ち向かわず、他人の問題に対して、他人の代わりに怒ってあげているような、親切で心優しい人が多いと思う。
だが、私はこういう人間のいうことをあまり信用しないようにしたい。
批判は容易である。その事件に関係のない人間ほど、容易に、無責任に批判する。
このような安易な批判を推し進める、その活力の源泉はなんなのだろうか。
我々が戦うべき本当の敵は別の場所にあるのではないだろうか。
我々は根源の問題に取り組むべきではなかろうか。
匿名掲示板やブログ上で批判を繰り返している誰かの行為の背景に、日常生活の鬱屈や、自分が所属するコミュニティへの不満があるのだとしたら、本来はそれを解消するように取り組むべきではないだろうか。自分の利害に関係のないメディアを叩いても問題は解決しない。振りかざした拳の行く先を間違えてはならない。真の敵はどこにいる?
弁護士の小倉秀夫氏に聞く ネットでの誹謗中傷問題(中)
実名を使うのが基本 それがネットをよくしていく
と題する記事がJ-CASTニュースに掲載されています。
個人的に、オレとしてはインターネット実名制には「条件付き」で賛同の立場です。モラルの問題ではなく、以下に引用した箇所に太字で示した部分について、ネット世界の可能性を感じているからです。
小倉 匿名中心では、現実社会の地位をアップさせる手段としてネットを利用しにくくなります。実名なら損をする、匿名で発言しないと危ないようなら、そうしたインセンティブがなくなるからです。発言によって社会的な評価が高まる可能性がある若い人にとっては、こうした状況は損ですよね。ネットで叩いている人は気分がよいでしょうが、それ止まりです。2ちゃんねるで嫌がらせをしても、その人の地位は上がりません。また、ポジティブに評価されても、それを収穫できません。こうしたネット社会では、若くて才能ある人が才能を発揮する場を狭め、現在社会的に高い地位にいる人にとっては好都合になります。今は、モラルに反する状態が続いていますので、実名制によってネットをよくしていこうということです。
リアル世界とネット世界、このように世界を二つに分けて考えるということは、「異様な状態」であると思っています。実際にはネット世界もリアル世界の一部であり、世界は一つしかない。もちろん、日常の生活とは切り離された「異質な生活空間」は存在してもイイとは思いますが、しかし、誰かに何かを伝える、表現する、創作する、という創造的な活動において、ネット世界での名声は、やはりリアル世界でも通用して然るべきものなのではないか、今は別個に存在しているかに思える二つの世界は、もっと密接に結びついていていいのでは、そう思うからです。ネットとリアルが幸せな関係で結びつく。「実名制」がそんな未来を引き寄せる原動力になってくれれば、と願っているのです。
ネットとリアルが幸せな関係で結びつく、とはどういうことなのか。それを語るよりも先に「ネットとリアルの不実の関係」について、まだ短い期間ながらも出版ギョーカイで働いてきた人間の視点で、「ライター」と「編集者」、双方の立場から、語ってみたいと思います。
